愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

演技者。 眠れる森の死体・第1話

見た。OPで生田&風間が喋っているのを聞いただけで満足してテレビを消しそうになった。ずっと物を食べていない人がいきなりたくさん食べちゃいけないんですよ。しかもこれから先再び口にすることはあるのだろうかというようなご馳走なわけです。でも我慢してもしょうがないんで食べました。非常に美味でした。
風間さんの演技は結局「兼末健次郎」から抜け出せていない気がする。それは私が彼に「兼末健次郎」をかぶせてしまっているだけで、抜けだせていないのは私の方なのかもしれない。私は今でもできることなら彼にデビューして欲しいと思っているんだけど、それは私の中に「デビューするということ=場を与えられること」という公式があるから。もっと色々な場を彼に与えてやってほしい。竜の子やちょんまげではない役を。だから演技者やヤンボコは嬉しくてしょうがない。来週も楽しみ。
以下は内容に触れた感想。




「目、開いてるの?」という台詞を風間氏の口から聞く日がこようとは!「目、開いてるの?」「全開だから!!」というやり取りは風間さんのお家芸だったのに。なんか懐かしいなぁ。あの最初の手は風間さんの手っぽかった気がするけど、これは話が進むにつれて分かるだろう。
まだ導入部なので、夜中の空き地に少年少女というシチュエーションにときめいたり、乱暴な言葉遣いをする風間さんにときめいたり、「僕」「君」という言葉を使う生田氏にときめいたりとのんきな見方しかしていないが、既に物語の伏線はそこかしこに散りばめられている模様。心と体の不一致感・不完全感(これは「生に対するリアリティの欠如」に繋がるような…)、「お互い、少年Aっつーわけだ」というオサナイ(風間)の台詞、記号の会話、影に映る真実、このへんに注目して今後も見よう。物語としては「アメリカ」より分かりやすそう。それはこの作品の底が浅いとかそういう意味ではなくて、「アメリカ」はとにかく物語に動きがなくて(少なくとも私にはそう見えた)最後にどばーーーっと来たので、既に色々な動きを見せている「眠れる森の死体」の方が形が見えやすそう。


それにしても物語に限らず「解釈する」という行為にはすごいエゴを感じる。他人の解釈に対しては相当な押し付けがましさを感じない限りそんなことは思わないのだけど(むしろ関心するばかり)、自分のは自分で書いてていやになる。いやなら書くなって感じですよね。でもなんか寂しいんですよね。日記をブログなんてもので書いているのは寂しいからなんです。寂しさがないとあまり書けない(だから最近ジャニネタを書く気があまりしない。ジャニ周りに関しては寂しくないから)。それと物事を言葉で説明できると安心する。自分の中で終止符が打てる。
と、自分語りのまま終わる。