愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

『白痴』と「EVERYDAY YEAH!片想い」

もうちょっと!もうちょっと!明日には
この恋 この恋 新展開??
なんちゃって なんちゃって もしなんかあれば
どうしたらいいの?
℃-ute「EVERYDAY YEAH!片想い」、作詞作曲つんく♂

「EVERYDAY YEAH! 片想い」は多幸感に満ちている。それはメインボーカルであるまいまい自身の甘い可憐さが大きな要因の一つであろうが、特に上記の歌詞に差し掛かったところで多幸感がピークを迎えるように思える。その理由をこの曲を聴くたびになんとなく考えていたのだが、昨日℃-uteのアルバムを聞きながらドストエフスキーの『白痴』を読んでいたら分かった。

世間の人たちの百人が百人まで、幸福は果たしてどこにあるのかという問いについて、どんな見解をもっているか、たずねてみるといいのだ。いや、ぼくは確信しているが、コロンブスが幸福を感じたのは、彼がアメリカを発見したときではなくて、それを発見しつつあったときなのだ。
(中略)
つまり、問題はその生き方にあるのだ、ただその生き方にのみかかっているのだ――絶え間なき永遠の探求の過程にあるので、決して発見そのものにあるのではない!
(『白痴(下巻)』ドストエフスキー木村浩訳、新潮文庫

恋の新展開を期待する「EVERYDAY YEAH!片想い」の主人公は、アメリカ大陸を発見しつつあるコロンブスと同じだ。だからこの歌はこの部分で多幸感のピークを迎えるのだ。「もしなんかあれば/どうしたらいいの」という戸惑いには、彼女が「(幸福とは)絶え間なき永遠の探求の過程にあるので、決して発見そのものにあるのではない」という事実を本能的に悟っていることを意味する。今の状態が幸福のピークであることを、少女らしい鋭敏さで悟っているのだ。結局歌は「もうちょっと!もうちょっと!最後まで/この恋 この恋 見守ってね」と、何もなかったところに戻り、そして彼女は今日も「EVERYDAY YEAH!大切なの/EVERYDAY YEAH!好きでぇ〜す」と幸福の絶頂のまま高らかに歌うことができるのである。この片想いの多幸感はあややの「桃色片想い」にも如実に表れていて、つんく♂はやっぱりすげーなと思ったり思わなかったり。片想いを幸福に歌うことってあまりないような気がする。


こんだけ語っておいてなんだけど、「幸福は過程に存在するものであり、その到達点にあるわけではない」というのは簡単な真理で、たとえば旅行は行った時よりもその計画を立てている時が一番楽しかったりするのと同じことなんだと思う。『白痴』には死刑直前の死刑囚の挿話が度々出てくるのだけれど、上記の幸福の話をそのまま裏返すと、彼らほど痛みに満ちていて不幸な存在はいないと言われる理由がよく分かる。