愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

『白痴』ドストエフスキー

純真で無垢な心を持った公爵は、すべての人から愛され、彼らの魂をゆさぶるが、ロシア的因習の中にある人々は、そのためにかえって混乱し騒動の渦をまき起す。

このあらすじを読んで、私は勝手にこの小説はロシア版山下清なのだと思っていたのだけれど、主人公のムイシュキン公爵は多少浮世離れしているとはいえ常識も教養もそれなりにあり、「白痴」という言葉からイメージされる人物像とは大分かけ離れている。訳者のあとがきによるとドストエフスキーはこの作品で「完全に美しい人間」「無条件に美しい人間」を描こうとしたのだという。ちなみにドストエフスキーの考える唯一の無条件に美しい人物とはキリストのことであり、つまりこの作品はキリストが現代(といってもこの作品が書かれたのはもう100年以上も昔なのだけれど)に現れたらどうなるか、という問いに対するドストエフスキーの答えなのかもしれない。この主題を抽出し蒸留し純度を高めたものが、後の『カラマーゾフの兄弟』における「大審問官」の挿話なんじゃなかろうか。
ムイシュキン公爵はやたらと子供を祝福する。また世間で罪深い女だと思われているナスターシャを憐れみの心から愛するようになる。どちらも聖書の挿話を思い起こさせる行為であり、ムイシュキン公爵はキリストを意識して創造された人物として見てよいのだろうが、公爵とはあらゆる面において対極にあるロゴージンがあとがきで言われているようにサタンとして描かれているように私は思えない。むしろ彼は「大審問官」における大審問官のような役回りなんじゃないかと思うんだが、あーもうタイムリミット。寝なきゃ。聖書を6年ぶりくらいに読んだけど、面白いな。新共同訳じゃなくて口語訳聖書が欲しい。そっちのがかっこいいから。


白痴 (上巻) (新潮文庫)

白痴 (上巻) (新潮文庫)

白痴 (下巻) (新潮文庫)

白痴 (下巻) (新潮文庫)