愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

かわいさの瀉血

3日くらい前に日記を書こうと思ったんだけど「そんなの拷問に近い」という意味合いの文章を慣用句を使って書きたくって、でもその慣用句があるということは分かっているんだけど、その言葉自体がどうしても思い出せなくて、人間思い出せないときって、「自分の脳内のどこかに絶対ある!」と確信を持てる思い出せなさと、これは「頭の中をどうさらっても出てくる気がしないな」と諦めのつく思い出せなさの二種類あると思うんだけど、タンタロス的な苦痛のある前者の思い出せなさの方が圧倒的に苦しい。なんでそんなことを今更書いているのかというと、ついさっき私が使いたかった表現が「蛇の生殺し」であったことに思い至ったからなのであるが、もはやそんな表現を使って何を書きたかったのかが思い出せず、「せっかく思い出したのに」とまさに蛇の生殺し状態。ふたたび不愉快な圧迫感に苛まれることになるのであった……。


そんなこんなで水曜日から有給を取っていて、よく分からないことにぐるぐるしている私を鉄の人が箱根に連れていってくれて、鉄の人が寝てしまった後、一人飲みながらかつて私がどうしても受け入れられなかったマジカルサマーのコンフィティたんが現在のやっさんに及ぼしている影響についてぼんやりと考えていた。




当時、「やっさん天使」という言葉を自己の拠り所としていた私は、日々加速するやっさんのぶりっこっぷりを受け入れられず、徐々にやっさんに萌えられなくなるというアイデンティティクライシスに直面していた。その危機感は巷であれほど好評を博した2005年サマースペシャル「マジカルサマー」のコンフィティたんにおいて頂点に達し(このへんとかこのへんで)、私は「『萌え』とは何なのか」という根源的な問いを自分に投げかけるまでに至った。はっきりいって舞台自体はすごく良かった。だけれども、私はあの過剰なまでにかわいさを炸裂させているやっさんがどうしてもダメだった。

私はそもそもかわいいやっさんが好きだった。ケーキの上のいちごを取られて「すばるくんがいちごとった……」と笑い泣きするやっさんのかわいさに心奪われ、転げ落ちるようにエイトのファンになった。その私が「かわいすぎて萌えられない」なんて本末転倒もいいところだが、ちょいと待ってよお富さん、ここで私が3年前に書こうと思ってなんとなく面倒で書かなかった「ジャニヲタは妖精安田の夢を見るか?〜『萌え』の原理を探る〜」が重要になってくる。

「萌え」は与えられるものではない。気付いた時にはつま先から頭のてっぺんまで浸かっていて身動きできない状態になっている。人に理性を忘れさせ、原始的な欲望に忠実にさせる一種の極限状態であり恍惚状態でもある。
有島武郎は『惜しみなく愛は奪う』の中でこう言っている。

愛は惜みなく奪うものだ。愛せられるものは奪われてはいるが、不思議なことには何物も奪われてはいない。然し愛するものは必ず奪っている。

ダンテの愛はビヤトリスと相互的に通い合わなかった(愛は相互的にのみ成り立つとのみ考える人はここに注意してほしい)。ダンテだけが、秘めた心の中に彼女を愛した。しかも彼は空しかったか。ダンテはいかにビヤトリスから奪ったことぞ。彼は一生の間ビヤトリスを浪費してなお余る程この愛人から奪っていたではないか。彼の生活は寂しかった。骯髒であった。然しながら強く愛したことのない人々の淋しさと比べて見たならばそれは何という相違だろう。ダンテはその愛の獲得の飽満さを自分一人では抱えきれずに、「新生」として「神曲」として心外に吐き出した。

有島武郎の言う「愛」と私の言う「萌え」は似ている。萌えは一方的に相手から「奪う」行為であるが、そのことが相手に何ら影響を与えることはない。だからこそ私たちは思うようにアイドルを愛することができる。しかしコンフィティという妖精を演じるやっさんはファンに対して「萌え」を「与え」ようとしていたように私には見えた。(つづく)