愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

メモ

「きみは木の葉を見たことがありますか、木の葉を?」
「ありますよ」
「ぼくはこの間、黄色い葉を見ましたよ、緑がわずかになって、端のほうから腐りかけていた。風で舞ってきたんです。ぼくは十歳のころ、冬、わざと目をつぶって、木の葉を想像してみたものです。葉脈のくっきり浮き出た緑色の葉で、太陽にきらきら輝いているのをです。目をあけてみると、それがあまりにすばらしいので信じられない、それでまだ目をつぶる」
「それはなんです、たとえ話ですか?」
「いいや……なぜです?たとえ話なんかじゃない、ただの木の葉、一枚の木の葉ですよ。木の葉はすばらしい。すべてがすばらしい」
「すべて?」
「すべてです。人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないから、それだけです。これがいっさい、いっさいなんです!知るものはただちに幸福になる。その瞬間に。あの姑が死んで、女の子が一人で残される――すべてすばらしい。ぼくは突然発見したんです」
「でも、餓死する者も、女の子を辱めたり、穢したりする者もあるだろうけれど、それもすばらしいのですか?」
「すばらしい。赤ん坊の頭をぐしゃぐしゃに叩きつぶす者がいても、やっぱりすばらしい。叩きつぶさない者も、やっぱりすばらしい。すべてがすばらしい、すべてがです。すべてがすばらしいことを知る者には、すばらしい。もしみなが、すばらしいことを知るようになれば、すばらしくなるのだけれど、すばらしいことを知らないうちは、ひとつもすばらしくないでしょうよ。ぼくの考えはこれですべてです、これだけ、ほかには何もありません」
ドストエフスキー江川卓訳『悪霊(上)』(新潮文庫、P.371)

キリーロフの思想に共鳴しつつも最後のところで拒絶反応が起こってしまうのはこのくだりのせいだろう。すべてはすばらしいなんて簡単に言ってはいけないのだろうか。それでも私は言ってしまうんだけど。

たとえ苦しみによって永遠の調和を買うために、すべての人が苦しまなければならぬとしても、その場合、子供にいったい何の関係があるんだい、ぜひ教えてもらいたいね。何のために子供たちまで苦しまなけりゃならないのか、何のために子供たちが苦しみによって調和を買う必要があるのか、まるきりわからんよ。
(中略)
もし子供たちの苦しみが、真理を買うのに必要な苦痛の総額の足し前にされたのだとしたら、俺はあらかじめ断っておくけど、どんな真理だってそんなべらぼうな値段はしないよ。
ドストエフスキー原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(上)』(新潮文庫、P.469〜471)

イワンが神を認めない理由。この発言は自分が無宗教だからすんなり受け入れられるのであろう。もし自分が敬虔なキリスト教徒だったら、イワンの一連の発言とそこから続く大審問官の話を受け入れるのは辛いのだろうか。旧約聖書アブラハムが神へのいけにえとして息子を捧げようとする挿話があるけれど、その心情がまったく理解できない時点で、キリスト教が深く絡むお話を読み解くことは不可能なのかもしれない。アブラハムの挿話と並んで理解できないのがヨブ記。きちんと覚えてないけど、理不尽に思った記憶しかない。宗教を理解しようとしている時点で間違っているような気もする。