愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

あの時君は若かった

試験勉強をするために使いかけのノートを漁ってたら、大学生時代にはまっていたバルザックの小説についての感想をひたすら書き連ねたバルザックノートが出てきた。

寺田透が自著『バルザック』(現代思潮社、1967)で、『谷間の百合』を「冷い小説」と評している。この小説は書簡体小説(寺田は「書簡的小説」と言っているが)でありながら、その長さはとても一晩で書いたり読めたりする分量ではない。それにも関わらず、フェリックスは夜までに手紙を書き上げ、ナタリーは一晩で読み尽くしている。その不自然さに、バルザックの小説に独特の「豊かさと楽しさの原因のひとつであるあの多角的に続行される筋の増殖」が見られず、「冷い小説」と評すに至ったようである。
日本にも長い書簡の登場する小説がある。夏目漱石の『こころ』だ。その半分は「先生の遺書」という長い手紙が占めている。この手紙も尋常な長さではなく、はなはだ不自然だが、だからといってこの小説を「冷い小説」と言う人はいないと思う。むしろ書簡というある特定の一個人にのみ向けられている一人称の率直さが先生の悔悟の念や罪悪感をダイレクトに伝えており、手紙の不自然な長さも、その意識の強さ故と思えば不自然には思えても冷たいとは思えない。
これは『谷間の百合』にも言えることだ。バルザックはフェリックスの溢れる感情をダイレクトに伝えるために、あの不自然に長い書簡体という形式をあえて選んだのではないだろうか。もしこの小説が単なる自伝として書かれていたら、あの最後のパンチのきいたナタリーの手紙も存在せず、ひどくありきたりな作品として終わったことだろう。

以下、書簡体だからこそ、フェリックスのいいわけがましいオナニストっぷりが強調されていて、バルザックの並々ならぬ感情の発露を感じ取った私は、『谷間の百合』は「熱い小説」と言わざるを得ない。という結論に至ってます。熱いな、2003年の私。好きだったなぁ、バルザック。しかもこの頃って原書で読んでたんだよな……。「AVEC QUELLE VIOLENCE MES DESIRS MONTERENT JUSQU'ELLE!」という言葉に興奮しているんだけど、5年前の私に意味を教えてもらいたい。今じゃさっぱり分からん。でも当時の私はドストエフスキーは挫折してたんだよな。なんでバルザックが読めてドストエフスキーは読めなかったんだろう?バルザックの方がよっぽど読みにくいと思う。