愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

横山裕とプリンと無常観

エイトファンだった2005年に書いたもの。自分の読み返し用に貼っておく。




横山さんは常に終わりを見つめて生きている人だと思う。すべてのものには終わりがある。すべてのものは儚い。そういう考え方を本能的に理解して生きている人だと思う。彼は無常観なんて言葉は知らないだろうし、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という『方丈記』の有名な冒頭の文句に至っては聞いたことすらないだろう。けれども横山さんの言動には時折強烈な無常観が垣間見える。
横山さんが作詞したかの名曲『プリン』にはこんな一節がある。

プリン プリン なんで食べたの僕のプリン
プリン プリン 二度と会えないあの日のプリン

この直前に台詞があって、そこで横山さんは切々と「なあおかん、なんで俺のプリン食べたん?また買ってくればいいとかそんな問題じゃないねん。俺はあのときのそのときのプリンが食べたかってん」(うろ覚えなのでニュアンス)とプリンへの思いを語る。「あのときにプリンが食べたかった」でなく「あのときのプリンが食べたかった」という横山さん。そこに私は無常観を見てしまう。ちょうど去年の今頃アイドル紙面を賑わせていたヨーグルト事件にしてもそうだ。「あのときのプリン」「そのときのヨーグルト」とまったく同じものは存在しないという考え方は無常観を持っている人間にしかできない考え方だと思う。
エイトを見つめている横山さんを見ていると時折切なくなる。それはプリンやヨーグルトと同じように「あのときのエイト」「そのときのエイト」とまったく同じエイトは存在しないということを彼が本能的に理解しているからだと思う。だからこそ横山さんは小鳥の頭を撫でるような繊細さをもって、一瞬一瞬のエイトをそっと噛み締めるように、包み込むように、見つめてしまうのではないだろうか。
もしエイトが解散してしまうことになったら、一番悲しむのは横山さんだろう。横山さんほどエイトのことを真摯に愛している人間はいないと思う。エイトメンどころか全てのファンを含めても横山さんの愛に敵う人はいないんじゃないだろうか。ただ、彼は無常観を抱いて生きている人なので「解散もしょうがない」と受け入れてしまう気がする。悲しみから逃げてしまう人よりも悲しみを受け入れてしまう人の方が切ない。