愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

2010-11-16 山田・知念

全然レポじゃないです。単なる雑感。うわさの「ゆうり」呼びについても思うところがあるのですが、それ以上に気になったこと。山田くんの「好き」の方法論。



  • OPトーク「F1好きな女の子をどう思いますか?」というお手紙。

山田:でもね、F1はね、光一くんが好きなんですよ。
知念:ほう。
山田:うん、だから、ちょっとね、勉強しよっかなーとかね、思ったりもしますよ、ちょっと光一くんとねー、やっぱ話したいじゃないですか?
知念:うん。
山田:光一くんにね、メールしてもね、あのね、絵文字がないからね。あのね、だからF1のね、話をちょっとメールでしたらちょっと絵文字かえってくるんじゃねーかなって。絵文字ついてかえってくんじゃねーかな、みたいな。
知念:いや、そういうのないんだよ、そういうの。
山田:ないのかな?
知念:僕だって絵文字、まったく使わない時だって、どんなに好きな話でも絵文字使わなかったもん。
山田:え、やっぱ、そうなのかなー?

山田くんが光一くんと話をしたいのか、光一くんから絵文字付きのメールをもらいたいのかよく分からない。前々から思っていたけれど、山田くんって好意を形にしたがるし、してもらいたがる人ですよね。お揃いのものを持ったり、「涼介」と下の名前で呼んでもらったり、そういうことで相手の好意を測るタイプ。知念様はたぶんそうではない。大野くん好きとして、「先輩と話をしたいから先輩の好きなものを勉強したい」という気持ちには共感できると思うけど、メールの絵文字のあるなしなんて、知念様はあまり気にしたことがない気がする。たぶん、知念様にとってはメールが来たという「事実」が大事で、そのメールに絵文字があったかどうかという「形式」の部分はどうでも良いんじゃなかろうか。だけど、たぶん山田くんは逆なんだろう。山田くんは形式主義だ。「事実」の向こうにある「形式」ばかり見ているから、時々自分が既に握りしめている「事実」には気付かない。私は光一くんとメールをしているという「事実」だけでも結構すごいことだと思う。だけど、山田くんにとって絵文字のないメールなんて、気の抜けたサイダーみたいに味気ないものなんだろう。
この事を踏まえて考えていくと、山田くんの「涼介と呼んで」と、知念様の「ゆうりと呼んで」の間にはものすごく大きな隔たりがある。


もっと分かりやすく書きたいんですけど、眠すぎる……。誤解されてしまったら嫌なんですが、このラジオ感想は山田くんのことを悪く言っているのではありません。こういうところがすべて山田くんの圧倒的なアイドル性につながるんです。いつか追記したいです。