愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

『ワンダーランド・トレイン』を歌っていた男の子はもういない

アンケート締め切りました。なんと137件もご回答をいただきました。ありがとうございました。本当に読むのが楽しかったです。必須項目の結果だけでも早々に発表したいです。
というわけで、知念様の16歳最後の日です。知念様強化月間をやろうと決めた時から、29日と30日に書くものは決めていました。これは去年の冬コン、知念様が16歳になったばかりのコンサートで『ワンダーランド・トレイン』*1を歌う知念様を見て思っていたことです。このことについて書こう書こうとずっと思っていたのですが、あっという間に一年が経ち、知念様はもうすぐ17歳になります。私はとにかくひどいショタコンなので、いつも好きな方の成長に抗ってきました。特にひどかったのは戸塚さんと山田くんに対してで、戸塚さんが17歳じゃなくなることと、山田くんが中学生になることが本当に辛かった。本来祝福されるべき成長を祝えないことは、まるで呪いのようです。以下、呪われたおたくが去年『ワンダーランド・トレイン』におぼえた喪失感のお話。




私は生まれた時からずっと祖母と一緒に暮らしているのですが、祖母を見ていると歳をとることは赤ん坊に戻っていくことのように思えてきます。どんどん理解できることが少なくなってきて、世界が狭くなり、無邪気にわがままを言うようになった祖母はまるで子供のようです。けれども、そうなっていくにつれて一種の神性のようなものも帯び始めてきたような気がします。祖母が「○○は××だ」と断言したことは不思議と当たるのです。それは人生経験に裏打ちされた予測に近いものなのかもしれませんが、予言めいた発言をして自己流のまじないを私にほどこす祖母に対して、巫女に接しているような神性を感じます。


子どもと老人にはある種の神性が宿るような気がします。それは物事を心から「信じる」ことができるからなんだと思います。成長していき、様々なことを知るようになるにつれて、物事を一心に「信じる」ということは難しくなっていきます。大人になるということは、信じることができなくなることだと思うんです。

たとえば、「明日は晴れる」ということを信じるとします。子どもなら、てるてる坊主の一つでも作ってお祈りをするだけで「明日は晴れる」と信じることはできるでしょう。でも大人になると、「いや、でも今日の天気はこうだった」とか「雲の動きがこうだからこうなる」とか、知識に基づいて判断するようになり、単純に「信じる」ということはできなくなります。老人になると、膨大な経験に裏打ちされた自分の判断に対する絶対の自信を持つようになるため、再び「信じる」ことができるようになります。実際に当たるかどうかは二の次です。ただ単に、純粋に「信じる」ことができるかどうか。子どもは自我がないから純粋に信じられるんだと思います。老人は逆に自我しかないから純粋に信じられるんだと思います。無知故の純粋さと全知故の純粋さ。その「純粋さ」の部分に神性が宿るような気がします。


『ワンダーランド・トレイン』には確かに神性が宿っていた時期がありました。これはセブンのメンバーがまだ狭い世界の中で生きていた子どもであったことも大きいと思うのですが、何よりこの曲の圧倒的な神性を担っていたのは、声変わり前の知念様が冒頭に放つ「どうして君は淋しいの?いつから泣いているの?」という問いかけだったと思います。たぶん歳を重ねている人間ほど、この問いかけにドキリとすることでしょう。何も知らない子どもの、すべてを見抜いているような問いかけ。この時の知念様の問いかけは本当に怖いくらいに純粋です。私が淋しいかどうかなんて、彼には知る由もありません。けれども、彼は一点の曇りもない「どうして君は淋しいの?いつから泣いているの?」という問いかけを全力でぶつけることができるんです。

声変わり前の知念様を「神の子」と呼ぶ人も多いですが、標準よりも小さくて幼い笑顔で無邪気さをふりまきながら、圧倒的な身体能力によって世界を支配していた知念様には同年代の他の子ども以上に自分を信じる力があり、そこには通常以上の神性があったのかもしれません。私はその頃の知念様を映像でしか知らないのですが、この問いかけに触れるたびにその純粋さに息苦しくなります。たぶんこの頃の知念様は何も知りません。ただ「君は淋しい」ということを無条件に純粋に信じています。そこに知念様の自我はありません。あるのは純粋な疑問のみです。だから、聴いている人間の胸をこれほどまでに打つんだと思います。私はこの問いかけを聴くと、罪びとが神父に懺悔をするごとく、幼い知念様の足元に身を投げ出したくなるんです。


去年の冬コンで、セブンたちは『ワンダーランド・トレイン』を歌っていました。でも知念様の問いかけに当時の神性はありませんでした。たぶん16歳の知念様は既に「どうして君が淋しいのか」という問いかけに自分なりの答えを持っています。もしかしたら「そもそも本当に君は淋しいのか?」という疑問すら抱いているかもしれません。知念様の問いかけには、成長することによって得られた知識による判断と自我が差し挟まれ、純粋さは失われました。当時のようにひたすらまっさらで純粋な問いかけは、聡い知念様にはもうできないんです。


私は去年の冬、『ワンダーランド・トレイン』を歌う知念様を見て、「『ワンダーランド・トレイン』を歌っていた男の子はもういないんだ」と強く思いました。そして、そのことに対して喪失感を抱いている自分に愕然としました。私は確かにショタコンですが、知念様に関してはその幼さや少年性に惹かれてファンになったわけではありません。『おおきくな〜れ☆ボク!!』に歌われていた知念様の圧倒的な自我や自覚的なアイドル性に惹かれて、知念様のファンになったんです。けれども、幼さ故の神性が失われた16歳の知念様が歌う『ワンダーランド・トレイン』にどうしようもない喪失感を覚えてしまったのも事実でした。かつて、17歳を終えた戸塚さんや中学生になった山田様に覚えたような喪失感は、まるで呪いのように再び切実な痛みを伴って訪れたのです。


しかし、翌年の3月、セブンは新しい曲を歌い始めます。この曲は「喪失への哀惜」を「成長への祝福」に変えてくれました。私にとってこの曲は「祝福」の象徴です。だから、知念様のお誕生日にはこの曲について書こうとずっと決めていました。


16歳最後の日、知念様が心穏やかに過ごせますように。

*1:作詞:森田文人、作曲:陶山隼