愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

惜しみなく美は奪う

知念様のことというか、知念様について語る自分のこと。いや、これに限らず、私は知念様について語っているようでいて、実はずっと自分のことについて語っていただけに過ぎないんでしょう。


知念様について語る季節はもう終わりかけているのかもしれない、と最近思います。少し前までは知念様を見ていると色んな感情が湧いてきて、それをアウトプットしないと苦しくてしょうがなかったのですが、17歳の知念様はただ美しいだけで、ため息しか湧いてきません。一通り見て、ため息をついて、それで満足なんです。
私にとって知念様について語ることは、自分の中の言葉の泉をくみ出すようなもので、今までは知念様が素敵になればなるほど、そのくみ出す量は増えていっていたのですが、私の中の泉が湧く以上の速さで知念様はどんどん素敵になっていって、私はもう枯渇寸前なんです。今までは私自身の妄執が本人を追い抜いてしまうことが多かったのですが、知念様はそんな私すら追い抜いていってしまうんです。
いつか訪れるであろう知念様について何も書けなくなる日を想像すると、悲しくてしょうがないです。本当に涙が出るくらいに悲しい。日記の下の方に「本当の美とは人を黙らせるものであります」という三島の言葉を引用していますが、知念様の美しさは私から言葉を奪っていくんです。私は知念様を見つめることによって知念様の何かを奪っているような気がしていて、見つめるという行為に罪悪感すら抱いていましたが、実際には私が奪われていたんです。
しばらくは私の中にも細々とした川が流れて続けてくれると思うので、すべてを汲みつくすまでは知念様について色々考えたり、書いていこうと思っていますが、それがなくなった時、自分がどうなってしまうのか少し怖い気もします。けれども、知念様の美しさに奪われて、空っぽになってしまうのも愚民として本望な気がします。矢吹丈が真っ白に燃え尽きたみたいに、私も何も残らないくらい知念様に奪われることを目標にがんばろうと思います。