愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

子どもの心理

ご無沙汰しています。
名古屋の感想を書かないまま、半月が過ぎようとしています。コンサート以外の普通の日記に至ってはこの1ヶ月くらいほとんど書いていない気がします。
別に書くことに飽きたわけでもなく、知念様に興味を失ったわけでもなく、むしろ知念様への思いは日に日に募るばかりです。ただ、最近こんな風にウェブ上に日記を書くことに意味を見いだせなくなってきてしまい、まるで恋文をしたためては出すことができない女学生のごとく、書いた記事は下書きやワードに保存してしまうことが多いです。


明星にNYCのロングインタビューが載っていました。私はこれを読んで、なんだか妙にいたたまれない気持ちになりました。自分が十代の頃、いつももやもやとした思いで体をいっぱいにして生きていたような気がします。その感情はとても言葉なんかでは表せるようなものではなくて、でも何かしないと弾けてしまいそうで、私はその思いを文章にすることで発散していました。自分でも自分が何を思っているか分からないので、ただひたすら読んだ本の感想をルーズリーフに書きつけていただけなのですが、今読み返してもその切実さには自分のことながら胸を打たれるような思いがします。

十代の少年少女が抱いているものはとても生々しくて、痛々しい。そんな思いを無理矢理言語化させて、大衆の前に並べるのはとてもサディスティックな行為だと思います。自己意識の高い知念様ですら、かなり無防備に言葉を紡いでいて、まだ自衛の観念が希薄な十代の子どもに大人と同じようにインタビューをしてもいいものなのかと疑問に思いました。
NYCは結成されてようやく2年が経とうとしているユニットです。彼らのおよそ17年の歴史の中で2年というのはとても長い。だけど、本当は2年なんてあっという間なんです。まだ、彼らはそのことを知らないから、NYCの歴史を語ってしまう。そのことはたぶん知らず知らずのうちに彼ら自身を傷付けている気がします。若い子が歴史を語ることは、まるで乾きかけのかさぶたをはがすようです。そこには痛々しさしか感じません。


大学生の頃、教育学の授業で「子どもの発見」について習いました。今でこそ、「子ども」は大人と区別され教育を受けていますが、17世紀まで子どもというのは単なる「小さい大人」に過ぎず、子ども特有の世界や人権は無視されていました。私は今の彼らは17世紀の子供たちのような扱いを受けているような気がします。彼らはまだ子どもです。大人の世界で働いているけれど子どもなんです。

人は子どもというものを知らない。子どもについてまちがった観念を持っているので、議論を進めれば進めるほど迷路にはいりこむ。このうえなく賢明な人々でさえ、大人が知らなければならないことに熱中して、子どもには何を学べるのかを考えない。彼らは子どものうちに大人をもとめ、大人になるまえに子どもがどういうものであるかを考えない。


(ルソー著、今野一雄訳 『エミール』)


インタビューよりもゆまたんのコンシーラーで隠し切れていないくまの方が気になりました。彼らの未成熟な言葉よりも、写真の方がはるかに雄弁です。十代のうちはそれでいいんじゃないかと思います。そして、大人はひっそりとそのことに気付いてあげればいいんです。


私が最近知念様について書くことにためらいを覚えるのは、私が大人の方法論を用いて知念様を解体しようとしているからです。それが正しいか間違っているかということは関係ありません。その行為自体に大人のエゴを感じるようになってしまい、知念様について書いたことをウェブ上に載せることができなくなってしまったんです。書くことは好きなので、きっと私はこれからも知念様について何かしら書き続けるんだと思います。だけど、それは私だけがひっそりと思っていればいいことです。

というわけで、この場所をどうしようか考え中です。今までは私は自分の考えていたことを記録することに情熱を注いでいたんですが、もっとコンサートやテレビやラジオや雑誌について純粋に記録をするだけの場所にしてもいいのかもしれません。とにかく私は知念様のためになることだけをしていきたいです。