愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

知念様と呼ぶこと

知念様について語ることについて相変わらず考えています。拍手の方からありがたい言葉をいくつかいただいて、少し泣きそうになったりもしたのですが、それでもやはり語ることに対する考え方は変わりません。
知念様のパブリックイメージって、たぶんしなやかでしたたかな小悪魔みたいな感じだと思うんです。私自身も最初は知念様の覇王的な面に魅せられて、知念様のファンになりました。「知念様」「愚民」という呼称から分かる通り、私にとって知念様は畏怖と崇拝の対象でした。けれども、知念様を見ていくうちに段々とその印象は変わっていき、今ではとても繊細で感じやすい神経の持ち主だと思うようになってきました。知念様の不遜にすら見える態度はそんな自分を追い隠すための防具なんだと思います。

私は層になっている食べ物が好きです。豚の角煮とか、ロールキャベツとか、ミルクレープとか、とにかく層状になった食べ物が好きなんです。その層と層の間に旨みが詰まっている気がして、層と層の間を意識しながら食べることに普通のおいしさ以上の浪漫を感じるんです。
私にとって知念様は層になってる方です。表面上は「かわいい」と言われれば「知ってる」と答える傲岸な態度で覆われていて、その中にはとても柔らかくて傷つきやすい知念様自身が隠されています。私はその層の部分を語ることにいつでも力を注いできていた気がします。そのことについて触れている方があまり多くないように思えて、今の職場での立場と同じように、勝手な義務感を持って異常な熱量を持って知念様について語ってきました。
けれども、拍手からコメントをいただいたり、ツイッターを覗いたりするようになって、知念様についてそんな風に考えている人もたくさんいるということを知って、別に私がわざわざ語ることもないのかなと思っていたところに、私自身知念様についてこんな開けっぴろげな場で語ることについて疑問を持つようになってきて、そろそろ年貢の納め時なんじゃないかと思うようになってきました。

最近、もう知念様とお呼びするのはやめようかとよく思います。私の妄想で膨らんだ「知念様」よりも、等身大の知念くんの方がずっと儚くて美しいからです。私が知念様を知念様と呼ぶのは、知念様に圧倒的なアイドルとしての自我を感じて、その真っ直ぐさとブレのなさに何より惹かれたからです。個性も信念もない私にとって、確固たる自我を持つ知念様は生きる指標でした。
知念様のアイドルとしての態度はますます確立されてきていて、私はそこに知念様の覚悟を感じます。そのアイドルとしての覚悟という部分をこれまで通り崇拝することもできると思いますが、最近では等身大の自分の中でもがいて新しい自分の虚像を構築しようとしている知念くんの不安定さに魅力を感じるんです。そうして彼の人格の層は更に重ねられ、これからますます複雑な色彩を帯びていくのでしょう。雲の切れ間から射しこむ一筋の陽光のように真っ直ぐで明るい知念様も素敵なのですが、プリズムを通したような複雑で淡い光を放つ知念くんがとても美しくて、そういう彼を見守っていきたいなぁと思うようになってきました。そんな彼についていちいち語ることは、まるでミルクレープを一枚ずつ剥がして食べるような無粋な行為なように思われるんです。

知念様を知念様と呼ばなくなることによって、私の中の何かが一つ終わる気がしてすごく淋しいです。本当に本当に、私はこの2年間、もう知念様を好きじゃなかった頃の自分が思い出せないくらい知念様のことが大好きで、息をするみたいに知念様という言葉を口にしてきました。知念様という言葉を発しない自分はもはや自分ではない気すらします。


って、別にやめると決めたわけじゃないんですけど。なんかもう本当に最近駄目なんです。私にとって「知念様かっこいい」はアイデンティティだったはずなのに、最近はとにかく知念様が可憐で美しくて可愛くて色っぽくて、そんなHow many いい顔な知念様に完璧knock out状態で、今日はスクール革命を見ながらなぜか緊張してしまって、ずっと動悸息切れをさせながら正座で見てました。こんなに美しくてガラス細工みたいに儚い人がこの世に存在していることが奇跡みたいです。そんな方に私なんかが不用意に触れちゃいけないんです……!!!!


と、なんだかんだで毎日よく分からないテンションで知念様に興奮している今日この頃です。