愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

清き流れに住む子たち

もう既に毎日更新があやしいです……。日付詐称も甚だしい。けど、なんとか毎日更新のていをとっていきたいです。
あんまり知念様は関係ないんですが、サマリで9人のジャンプを見て思ったこと。


サマリーで9人のジャンプを見た率直な感想は「9人の方がまとまりが良いな」でした。ジャンプのようにセンターがわりと固定しているグループだと、偶数よりも奇数の方がフォーメーションが綺麗に作れる気がします。特に「Beat Line」にそれは顕著に表れていました。


私は何度も言っているように、基本的にジャンプというグループ自体を見ることは意図的に避けていました。10→1という考え方を持たないようにしていました。私にとって、たぶん知念様は最後のアイドルで、知念様を見つめる時間を少しでも引き延ばしたくて、グループ自体に入れ込むことは避けていました。グループを好きになることは諸刃の剣です。喜びも悲しみも何倍にもなって訪れる。


9人のジャンプはすごくまとまりが良いと思います。ダンスだけじゃなくて、グループ自体にも歪みを感じなくなりました。
私は10人のジャンプにずっと「歪み」を感じていました。特にセブンだけでいるとその「歪み」はますます顕著になりました。その歪みをもたらしていてるのは山田くんだと思っていました。
誰よりもグループを愛し、その一員であることを願いながら、頑張れば頑張るほど一人突出してしまう。まるで、寄り添おうとすればするほど相手を傷付けてしまうヤマアラシのジレンマのような山田くんの苦しみはジャンプに歪みをもたらしていて、それ自体がまた山田くんを照らす光となっているところに、山田くんのアイドルとしての業の深さを感じていました。だから、山田くんがいなくなった方が、実はジャンプは歪みのないグループになれるんじゃないかとまで思っていました。けれども、私はその「歪み」の部分に時折強烈に惹かれていました。敢えて言うのであれば、不安定さと歪みが私にとってのジャンプの魅力でした。


だけど、未だにアイドルとして君臨する山田くんがいるのに、私はジャンプに歪みを感じなくなりました。かつてはセブンにあれほど強烈に感じていた歪みも、今のセブンからは感じられません。綺麗にまとまっているなと思うだけです。


最近、ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』を読み返しています。高校生の時に一度読んで「強烈な叙事詩だ」と思って感激したものの、とくにそれから読み返すことはありませんでした。私は占いは信じませんが、部屋中に積んである本からふと思い立って一冊の本を抜きだす瞬間には呪術めいたものを感じます。特に一度読んだ本を読み返す時には、きっとその内容が頭の片隅に残っていて、私が今読むべきものだと第六感のようなものが伝えてくれているのかもしれません。私は詩を読むのが不得手なので、そしてニーチェは私にとって強烈な詩人であるようにしか思えないので、きっと理解することはできないんでしょうし、する必要もないんでしょう。けれども、ニーチェの強烈な言葉はいくつかの道筋を与えてくれたような気がしました。


ツァラトゥストラの序盤で精神の三段の変化について語られます。精神は重いものを抱えて膝を折る「駱駝」になり砂漠に向かう。そして、その砂漠の支配者となるべく「獅子」になり自由を手に入れる。そして、最後に「幼な子」になり、新しい価値を創造する。

幼な子は無垢である。忘却である。そしてひとつの新しい始まりである。ひとつの遊戯である。ひとつの自力で回転する車輪。一つの第一運動。一つの聖なる肯定である。

ニーチェ著、氷上英廣訳『ツァラトゥストラはこう言った(上)』)


私にとってもったんはずっと「自我のない幼子」でした。他のセブンメンが自分の理想と現実の間で大なり小なりもがいている中で、もったんはただもったんであり続けているような気がしました。春コンのMCで、もったんは色んなメンバーの物真似を披露しました。それはどれも絶妙に似ていて、もったんが何も言わずにメンバーのことを見つめていることを知り、もったんのあのつぶらな目に映る世界がどんなものなのか、密かに関心を寄せていました。
ジャンプの歪みは、もったんの視線があって初めて完成するものだったのかもしれません。もったんを失って、まるで目を失ってしまったようです。今のジャンプはとても綺麗な球体です。つるつるすぎて、私には掴むこともできません。多少の突起や凹みがなければ、人はそこに掴まることはできません。もったんは私にとってそういう役割を果たしてくれている子だったのかもしれません。
そのせいか、もったんがいなくなってから、なんとなくジャンプというグループを中から見始めてしまったような気がします。掴めないなら、中に入るしかないんです。私はいつでも純粋に知念様を追っていたくて、そこにグループ自体への思いを絡ませたくはなかったのですが、最近はその線引きもうやむやになってきました。


9人のジャンプはまとまりがよくて綺麗だと思います。でも、9人のジャンプを見ていると、「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」という狂歌をなぜか思い出します。綺麗なことが良いことなのか、悪いことなのかは分かりません。ただ、やっぱり無性にもったんが恋しくなる今日この頃です。