愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

ひきこもりのおたく

ああ、きょうも俺は醜悪な真似をしでかしたぞ、だが、できてしまったことはもうどうせ取返しがつかないんだと、ことさら強く意識しては、心中ひそかに自分をさいなみ、われとわが身を噛みさき、切りきざみ、しゃぶりまわす。すると、ついにはこの苦痛が、ある種の恥ずべき、呪わしい甘美さに変わっていき、最後には正真正銘、ほんものの快楽に変ってしまうのである。


(『地下室の手記ドストエフスキー江川卓訳)


最近、知念様について何かしたためては、こんなことを書く自分は最低な人間だ、およそファンとは言えないと自己嫌悪に陥る日々を過ごしているが、むしろ自分を貶めるための手段として知念様を利用しているんじゃないかと思う時もある。この『地下室の手記』にあるように、卑下も行きすぎれば快楽なのかもしれない。
このところ忙しくてろくに新しい情報も知らず(仙台イベントも知らなかった……)、自分の中にある知念様の知識だけで知念様について考えているので、使い古された情報は煮詰まっていき、もはや原型をとどめていない。こういう時、ああもうヲタ卒ができるんじゃないかと考えるんだけど、そういう時にコンサートで実物の輝きを目の当たりにすると、その圧倒的な光にひれふして、やっぱり知念様が好き!!!!となるので、強制的に光を直視させられるコンサートに早く行きたい。

要するにコンサート楽しみってことが言いたいだけの話。結局、私は知念様のことを語るふりをして自分語りをしているだけなんだけど、知念様がいないと語るべき自分の影すらつかめないので、やっぱり知念様は私の絶対の指標で、なくてはならない方なんだろう。