愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

知念様、19歳おめでとうございます。

公演の感想は12/1付にあり。


知念様、19歳おめでとうございます。

知念様が19歳になった時、私はまだ電車に乗っていました。知念様のファンになってから知念様のお誕生日を迎えるのは4回目ですが、なぜか今までで一番感動して、乗換の電車を待つ駅のホームで涙ぐんでしまいました。
スプラウト」2話で、知念様演ずる草平くんが「人を好きになるって結構いいよ」みたいなことをおっしゃっていましたが、知念様は本当はそんなことを思っていない気がします。人を思う感情というのは重くてどろどろとしていて、動き続けていないと飲み込まれてしまう底なし沼みたいです。実際に私は衆人環視の駅のホームで泣いてしまうくらい知念様が好きという感情に呪いのような重さで縛られています。


私の中で、知念様は「切り捨てていく人」というイメージがあります。重苦しい感情を好まず、軽やかに生きていくことを望んでいる人。前に少クラで茄子が嫌いだという話をしていた時に、小山くんに「大人になれば味覚が変わって食べられるようになるよ」と言われて、「好きにならなくていいです」というようなことを答えていたこともありました。それを見た時に、少しでも自分に必要ないと思えば切り捨てて顧みることをしないんだろうなぁと思いました。

だけど、その生きざまがあまりに潔すぎて、寒々しく思える時もありました。知念様が引きこもりになってしまったのは切り捨てすぎた結果なんじゃないかなと思います。そんなことを考える時、いつも脳裏に思い浮かぶのが萩原朔太郎の散文です。

どこにも餌食がなく、食物が全く尽きてしまつた時、彼は自分の足をもいで食つた。まづその一本を。それから次の一本を。それから、最後に、それがすつかりおしまひになつた時、今度は胴を裏がへして、内臟の一部を食ひはじめた。少しづつ他の一部から一部へと。順順に。
かくして蛸は、彼の身体全体を食ひつくしてしまつた。外皮から、脳髄から、胃袋から。どこもかしこも、すべて残る隈なく。完全に。

萩原朔太郎「死なない蛸」)

最近の知念様はアイドルである「知念侑李」の中に引きこもっている気がします。過剰なまでのファンサービスはその表れに見えます。廃墟となった水族館で、蛸が自分自分を食らってしまったように、知念様は自分自身を少しずつ侵食している気がします。


ただ、実際には知念様は一人じゃありません。高校を卒業して、社会人になった知念様にはもっと広い世界に目を向けて欲しいです。そして、引きこもっている知念様を引きずり出してくれる人を作ってほしい。
そういう人はすぐそばにいるのかもしれないし、まだ出会っていないかもしれません。
たしか、知念様は何かの雑誌で茄子を食べられるようになろうとしているとおっしゃってました。そんな風に少しずつでいいから、今まで切り捨てていたものや見ていなかった世界にも目を向ければ、きっと何かが見つかると思います。


18歳の知念様のおかげで、私は1年間とても幸せに過ごせました。
だから、19歳の知念様の幸せを願ってやみません。


知念侑李さん、19歳おめでとうございます。
今日、世界で一番幸せに過ごせるように心から祈っています。