愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

自作のユートピア

昨日の知念様はかなり体調が悪そうに見えた。空中ブランコが終わったあとの台詞がまったく言えてなくて、言ってる途中で倒れてしまうんじゃないかと思った。いや、実際にはきちんと言えていたんだけど、ネジの切れかけたオルゴールがようやく音楽を奏でているような訥々とした喋り方で、今にもネジが切れてしまいそうで気が気じゃなかった。

マチネの太鼓のあたりから知念様の顔にどんどん虚無感が広がっていって、これは相当疲れているんだろうと思ったけれど、心配はしていなかった。知念様は野生動物が怪我をした時にただひたすら動かず回復を待つように、疲れている時は自分の中に引きこもって回復を待つ人だと私は思っているので、回復のための引きこもりにすぎないと思っていた。朦朧としているせいか、いつも以上にまつ毛にけぶるようになっている目元になんともいえない色気すら感じていた。

だけど、空中ブランコの時、これは相当まずいんじゃないかと思った。
知念様はああいう大技に挑戦する時は本当に無になることができる。そうして、完全に雑音を振り払うことによってすさまじい集中力を発揮する。たとえ失敗したとしても、集中力は切れることはなく、冷静に次の動作に移ることができる。その知念様の精神力の強さにいつも感銘を受けていた。

だけど、昨日の知念様の空中ブランコには感情があった。とにかく早く終わらせたいという焦りを感じた。座って漕いでいる時からブランコは不安定だった。大きくぶれながら揺れるブランコを見ているとものすごく不安になった。
腿をつかんでくるくると回る大技の直前、完全にブランコのバランスはおかしくなっていて、前後だけではなく左右にも大きく揺れていた。きっと知念様はそのまま少し揺れて冷静にバランスを立て直してから大技に移るのだろうと思っていた。けれども、知念様は乱れたバランスのまま無理矢理技に移った。「あ、駄目だ」と思った瞬間にブランコはくるくるとねじれ、知念様はまるで蜘蛛の糸に絡め取られた小さな蝶のようにただぶら下がっていた。

そのまま冷静にねじれが直るのを待っていた知念様はさすがだと思ったけれど、それからの知念様は羽根をもがれたように動きに生彩がなくて、あんなに重そうに自分の体を扱う知念様を初めて見た気がした。知念様を見ている時はいつも重力を感じないのに、あの時だけは劇場にいるどの人間よりも重力に捕らわれていた。


そんな風に私には見えたけれど、知念様に対してそんなことを言っている人はあまりいなかったし、実際に知念様の体調がどうだったのかという答えはきっと永遠に与えられない。
万が一、本当に知念様の体調が悪かったとしても知念様はそれを知られることをいやがるだろうし、知念様の精神力のみなもとは自分を信じることと、自分を信じてもらうことだと思うから、どちらにせよ私には知念様を黙って信じることしかできない。そう分かっていながら、私は騒ぎ立てずにはいられなくて、そんなファンが最も知念様のためにならないファンであるような気がして、私の中でウェブで知念様について書く季節は本当に終わったんだと思った。

もう何度もやめようと思っていたのに私が知念様についてずっと書いてきたのは、ひとえに少しでも知念様のためになりたかったからで、私の日記を読んで知念様をもっと好きになったと言われることが一番嬉しかった。だから、日記を好きだと言ってくれる人に書いて欲しいと言われるたびに、なんとか自分をごまかしながら書いてきた。
その一方で、私の非常に偏った主観に満ちた意見を絶対のように言われることが怖かった。そんな人は数多くの知念様ファンの内のほんの一握りで、大河の一滴にも及ばない量なんだろうけれど、ほんの少しでもそんな風に思わせてしまうことが怖かった。

アイドルに限らず、何かについて語るということは結局は自分について語ることなんだと思う。私の語る知念様が好きだと言ってもらえるのは嬉しいけれど、それは私が自分のいいように解釈した知念様にすぎなくて、私の語る知念様は結局のところ私自身なんだと思う。私自身といっても、私が知念様に自己投影をしているわけではない。その根にあるものはもっと卑屈で醜い感情なような気がする。だから、私の語る知念様を好きだと言ってもらうことは、知念様を好きだと言ってもらうことと似ているようでまったく違う。

ジャニーズワールドのユートピアが一人一人の心の中にあったように、アイドルは一人一人の心の中にあって、そのどれもが正しくて、そのどれもが正しくない。それぞれの中にそれぞれの偶像があれば良いのであって、そこに私の語る知念様は必要ない。