愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

ジャニーズワールドのシーシュポス

ジャニーズワールドが終わりました。週末ごとに帝国劇場に通う日が終わり、あの舞台は結局ジャンプに何をもたらしたんだろうと考えていました。

ジャニーズワールドを見ていて印象的だったのが、「Hello Broadway」でフライングをしている山田くんがぶつかって砕けてしまう男性の像でした。彼は地球の形をした大きな岩を肩で持ちあげながら苦悶の表情で片膝をついています。私は彼のことを心の中でシーシュポスと呼んでいました。

シーシュポスというのはギリシア神話の登場人物です。私はカミュの『シーシュポスの神話』が好きで、折りに触れて読み返しているのですが、3ヶ月103公演繰り返されたジャニーズワールドという過酷な舞台はシーシュポスの苦行と符合するところがある気がします。

神々がシーシュポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂にまで達すると、岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてしまうのであった。無益で希望のない労働ほど恐ろしい懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにいくらかはもっともなことであった。*1

シーシュポスはおのれの犯した罪への罰として、山の頂上まで岩を運び続けることを命じられます。岩は頂上に着いた瞬間に転がり落ち、シーシュポスは永遠に終わらない無意味な労働をし続けなければならないのです。

前にSMAPの中居くんが「舞台は同じことの繰り返しだから自分にはできない」というようなことを言っていました。舞台は生き物だと言う人もいますが、基本的には同じことの繰り返しです。幕が下りても、また幕が開けばゼロからのスタートです。特にジャニーズワールドは演者によっては肉体的にもかなり疲弊する舞台であり、これを何度も繰り返す日々に途方に暮れることもあったと思います。私は見ているだけでしたが、それでも12月に入ったあたりからジャンプの面々に疲労の色が見え始め、見ているのが辛い時もありました。これを3ヶ月もやる意味が分かりませんでした。毎日繰り返されるジャニーズワールドは、時にシーシュポスの苦行のように思えました。

カミュは『シーシュポスの神話』の中で、慎重で聡明な一方、直情的で刹那的なシーシュポスのことを「不条理な英雄」と呼びましたが、私はアイドルがこの舞台を演じることに不条理さを感じていました。彼らはアイドルで、笑顔で歌って踊って人を楽しませることが仕事です。なのになぜ悲壮感の漂う綱渡りや、危険を伴う空中ブランコをしなければならないのか。

だから、彼らが千秋楽の2度目のカーテンコールでひたすら「楽しかった」と言っていたことが不思議でした。それこそ、サマリー2010や二度目のドームコンサートの時のように全員で泣いてしまってもおかしくないんじゃないかと思っていました。だけど、彼らは幸せそうに、満足そうにひたすら笑っていました。見ている方が拍子抜けしてしまうくらい。

ジャニワを終えて、改めて『シーシュポスの神話』を読んで、彼らが幸せそうだった理由が少しだけ分かった気がしました。

世界はひとつしかない。幸福と不条理とは同じひとつの大地から生まれたふたりの息子である。このふたりは引き離すことができぬ。(中略)「私は、すべてよし、と判断する」とオイディプスは言うが、これは〔不条理な精神にとっては〕まさに畏敬すべき言葉だ。(中略)この言葉は、運命を人間のなすべきことがらへ、人間たちのあいだで解決されるべきことがらへと変える。(中略)かれの運命はかれの手に属しているのだ。かれの岩はかれの持ち物なのだ。同様に、不条理な人間は、自らの責苦を凝視するとき、いっさいの偶像を沈黙させる。(中略)影を生まぬ太陽はないし、夜を知らねばならぬ。

3ヶ月で103公演とは不条理な公演数だと思います。けれども、彼らはある時から、その不条理さを「すべてよし」と受け入れたのでしょう。この舞台を初めて見た時、これは洗脳の一種なのではないかと危惧していたのですが、NHKワールドの舞台裏を見た限り、彼らは自我を持ってこの舞台に取り組んでいるように見えました。自分たちの意思でこの舞台を受け入れたからこそ、この舞台は彼らのものとなり、彼らは自分たちの運命の支配者となり、不条理さは幸福に姿を変えたのでしょう。

OPで山田くんに破壊される男性像は、EDで元の形に戻って再び登場します。ようやく頂上まで押し上げた岩がころげおちていくようにすべては元に戻ります。あの男性像が地球を担いでいるのは象徴的です。あの地球の形をした岩はこの「ジャニーズワールド」という舞台そのもので、何度も壊されても元に戻るあの像はジャンプたち自身のようです。

彼らには今までもこれからも、不条理だと思えることがたくさんあると思います。それを苦しみ抜いたからこそつかめる幸福もあるのかもしれません。だから、この不条理な103公演は無意味ではなかった。

カミュはこの短い論説をこう締めます。

頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすに充分たりるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ。

最後に笑っていた彼らは幸福だったと思います。いや、そう思わなければならないのだと思います。

本当に出演者のみなさん、スタッフのみなさん、103公演お疲れ様でした。


そして、もう充分いろいろ分かったので、次はもっと楽しく見られるものをお願いします……。

*1:以下、すべて引用はカミュ著、清水徹訳『シーシュポスの神話』(新潮文庫)より