愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

透明な怒り

久しぶりに拍手からコメントをいただいて嬉しかったです。もはやコン感想を置くだけの跡地になって久しいですが、まだ見てくれる人がいるんだなぁと思って嬉しかったです。萩原朔太郎の「死なない蛸」という散文詩が好きで、この日記でも何度か引用しているんですが、忘れられた水槽の中で飢えのあまり自分の足を食べつくしてしまう蛸が、もはや機能していない日記の中で言葉を変えて何度も同じ思想をなぞっている自分の姿と重なって、このままひっそりとヲタ卒していくのもいいかもなと思ったりもしていたのですが、覚えてくれている人がいて嬉しかったです。やっぱり死なない代わりに飢え続ける蛸よりも、ちゃんと食べるものを食べて死ねる蛸になりたいです。
今回のコメントだけじゃなくて、前にいただいたメールもコメントもあまりお返事はできていないのですが、すべて嬉しく読んでいます。今更ですが、ありがとうございました。


私はいつだって今が一番知念様を好きなんですが、ここ数日色々考えすぎた結果、私の中の知念様株価がアベノミクス後に急騰した日経平均株価よりも急速な勢いで上がっていて、それに伴って色々書きたい気持ちが湧いてきたのでしばらく思うがままに更新したいと思います。


ここ数日で色んな人の怒りに触れた気がします。他人の怒りを目の当たりにすると、岡本太郎の『美の呪力』にあったこの言葉を思い出します。

怒りは宇宙に透明にひろがる情熱、エネルギーだ。


ジャニヲタをやってると色んな怒りに直面します。コンサートの後、楽しそうにしているファンの方がもちろん多いのですが、怒っているファンもたくさんいる気がします。2009年から2010年にかけての冬コンで花道がない(=ファンサが少ない)ことを呪詛のように延々と罵っている人がいて衝撃を受けたことがあったんですが、私自身ぱっと思いだせる怒りは、NYCコンサートが開催されないとか、KCラジオがこないとか、知念様が誰かにかぶって見えなかったとか、知念様にまつわることばかりです。


怒りの根底には対象への思いがあります。私は仕事でクレーマーじみた方を相手にするのが結構好きなんですが、文句を言う人ってそれだけの思いをこちらに抱いてくれているんですよね。そういう人ほど、一度裏返せばこちらに好意を寄せてくれるようになります。逆もしかりで、思い入れがあればあるほど怒りは深いものになり、宇宙的に広がっていき、やがて自己へと辿りつきます。

自他に挑み、歓喜し、絶望しながら、思わず空を見上げる。晴れた透明な日、また密雲が暗く渦巻くとき、そこに自分の姿を投影し、自己を、そして人間存在を自覚するのだ。


私が突然ふっきれたのは知念様のおかげもあるのですが、一番の要因は真摯に向き合っている方々の姿に感銘を受けたことです。嘲笑するのでもなく、諦めるのでもなく、憤って(怒りの対象は様々でしたが)、そんな自分に向き合って、最終的に応援することを選ぶ姿がすごく美しかった。ここにある怒りこそ「宇宙に透明にひろがる情熱、エネルギー」なんだと思いました。結局のところ、私は当事者じゃないんですよね。だから私の怒りはそこまでは広がっていかない。そんな私なんかが落ち込んでいる場合じゃないと思ったんです。


余談ですが、引用した文章はいずれも「挑戦」という章からのもので、この章の最後は武器についての考察で締められます。

華やかな武器、いでたちは、それ自体が挑みの姿だ。殺傷の道具だが原始時代には槍・弓・矢にまでびっしりと呪術的な装飾をつけたものが多い。(中略)奇怪な形が威嚇と力を伝える。


ここにきて私はコンサート会場のうちわに注目し始めたのですが、ジャンプコンにおけるうちわは、私が知っている他のグループのコンサートと比べると独自の進化を遂げている気がします。素朴なものから威嚇的なものまで多種多様にあり、それぞれに持ち手の祈りと挑戦が込められています。それを遺影のごとく胸に掲げている姿は宗教的ですらあり、もはやジャンプコンは一種の原始的な芸術の場になりつつあるのかもしれないと思う今日この頃です。