愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

はるかな国の兄弟

今日はこの本を読み終わったら、後半誌を買いに行って、それから知念様と人見知りについて書こうと思っていました。


はるかな国の兄弟 (岩波少年文庫 85)

はるかな国の兄弟 (岩波少年文庫 85)


裏表紙のあらすじはこうありました。

やさしくて強い兄ヨナタンと、ひたすら兄をしたうカール。はるかな国ナンギヤラにやってきた二人は、怪物カトラをあやつり村人を苦しめている黒の騎士テンギルに立ち向かっていった。勇敢な兄弟の姿を、叙事詩風に描いた作品。

原作は「長くつ下のピッピ」で有名なリンドグレーンなので、これも愉快な冒険譚だと思って「仲良しショタ兄弟(13歳と10歳)の冒険物語なんて素敵じゃな〜い」と軽い気持ちで読み始めたんですが、思っていた内容と全然違った。プリキュアだと思って見に行った映画がまどかマギカだったくらい違った。そして、出かける気がなくなってしまった。


私が児童書に求めているものは素敵なショタと素直なカタルシスなんですよね。児童書は子供向けなので基本的にはとても分かりやすいカタルシスがあるんです。それを素直に受け取っても良いし、勝手に物語を深読みするも良し。
そういう点で児童書を読むこととアイドルを見ることは似ています。アイドルを見て単に「かわいかった!かっこよかった!楽しかった!」と済ませても良いし、勝手に掘り下げた妄想をして「アイドル尊い」と泣いても良い。だけど、この物語にはそもそもカタルシスがまったくありませんでした。


主人公である10歳の病弱な少年カールは美しく健康な兄ヨナタンからナンギヤラという国のお話をよくしてもらっていました。そこに行けば自分の曲がった足も良くなり、毎日冒険をして暮らせるというのです。このナンギヤラというのは死後の世界のことです。これは隠喩などではなく、作中ではっきりと示されています。ヨナタンはカールがもうすぐ死ぬことを知っていたので、そういう話をして、死ぬのは怖くないこと、死んでからもじきに一緒にいられるようになることを教えてあげていたんです。結局ヨナタンは火事から弟を守るために先に死に、続いて弟は持病で死に、二人ともあまり時を隔てずにナンギヤラに住むようになります。ここから物語は始まるのですが、もうこの時点で暗すぎです。

ナンギヤラに行き、カールは健康な体と素敵な馬を手に入れて、ヨナタンと楽しく暮らすことになります。街の人たちもとても気が良くて、二人のことを優しく受け入れてくれていました。しかし、黒の騎士テンギルに脅かされている隣りの谷を助けるために二人は「あってはならないような冒険」をすることになってしまうのです。


プリキュアだと思って見に行った映画がまどかマギカだったくらい違った」と先に書きましたが、「憧れていたものが実際には陰鬱な犠牲の上に成り立っていた」という主題は「魔法少女まどか☆マギカ」や、かなり前に話題になった「魔法少女の刑」(http://neetsha.jp/inside/comic.php?id=8713、やや鬱注意)というウェブ漫画にすこぶる似ています。

この物語で描かれている冒険は大人の汚い欲望にまみれていて、理不尽な死や味方の裏切りなども生々しく描かれているえげつないものです。

夜明けから日暮れまで、あるものはただ、血と、おそろしさと、そして死でした。ここには、あってはならないような冒険もあるんだと、いつかヨナタンはいっていましたが、今日、ぼくたちは、そういう冒険に充分すぎるほどぶつかったのです。戦いの日、……それはまったく長くて、つらいものでした。

これが10歳の主人公の冒険に対する感想ですよ。まるで戦時中の子供の証言みたいです。そもそも死後の世界なのに「死」があるというのが衝撃的すぎる。

ナンギリヤの死後の世界はナンギリマと言って、そこは「たき火とお話の時代」だから、ナンギリヤのような「あってはならない冒険」はない楽しい場所だとヨナタンは言います。ヨナタンは最後の最後で体が動かなくなってしまうのですが、ナンギリマに行くためにカールがヨナタンを背負って、崖から飛び降りて心中するところで物語は終わるんです。なんてこったい。

っていうか、私、ヨナタンがナンギリヤのことも「野営のたき火とお話の時代」って言ってたの覚えてるから!結局ナンギリマでもナンギリヤと同じことが起こるんじゃないの?ねぇ!?と、ヨナタンのことを問いただしたい気持ちになりました。


なぜドラクエみたいな痛快な冒険譚にせず、死んでからもこんな目に合わないといけない話にしなければならなかったのか、正直理解に苦しみました。最初は死後の世界を美化しないためにナンギリヤでも苦労をさせたのかと思ったんですが、最終的に死を選ぶわけだからそういう意味はないんだろし。

色々考えてみたんですが、この物語を「カールの成長物語」としてカールだけを追って行けば、なんとなく理解できるような気がしました。ヨナタンは現世では火事から逃げるためにカールを背負って三階から飛んで死んでしまい、そのことを悔やみながらカール自身も死んでいくのですが、物語のラストではカールが動けなくなったヨナタンをおぶって自らの意思で死を選びます。生きていたころのカールはヨナタンの存在が全宇宙で、自ら何かを選択することはできなかったけれど、最後の最後に自分の意思で偉大な決断を下すのです。そうなるためには楽しいだけの冒険だけではなく、辛くて悲しい冒険を経験しなければならなかったんだと思うんです。だから最終章のタイトルは「小さな勇ましいクッキー(カールの愛称)」だったんでしょう。


また、もう一人の主人公であるヨナタンを追っていくと別の解釈もできます。ヨナタンは近所のおばちゃんが王子様みたいだと言うくらい素晴らしく美しくて、なおかつ強くて人望もある超カリスマ的美少年なんです。そんなヨナタンのカリスマ的な魅力はナンギヤラでも認められていて、大人も老人もみんなヨナタンを頼りにします。だけど、ヨナタンはそのために望んでいない人殺しもしないといけなかったし、最後には体を動かすことができなくなってしまう。
人に頼られ他人に尽くして一生を終えるヨナタンの生きざまはイエス・キリスト的であるような気がします。実際に作中で「わが救い主ヨナタン」とみんな歌っているという描写もあります。そう考えると、ナンギヤラはキリスト教でいう死後の世界で、ナンギヤマは最後の審判の後に現れる新天地的な場所なのかもしれません。


ここまで考えたら色々納得ができたような気がするので、ハイパー美少年で弟思いなヨナタン(13歳)と、そんなお兄ちゃんのことを死を選んでも構わないくらい大好きなカール(10歳)の二人にある程度萌えられるようになりました。そうだとしても悲しすぎるけど。これを小学生の時に読んだらトラウマになっていたんじゃないかなぁ。淡々と衝撃的なお話でした。