愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

二百十日・野分

「我々が世の中に生活している第一の目的は、
 こう云う文明の怪獣を打ち殺して、金も力もない、
 平民に幾分でも安慰を与えるのにあるだろう」
「ある。うん。あるよ」
「あると思うなら、僕といっしょにやれ」
「うん。やる」
「きっとやるだろうね。いいか」
「きっとやる」
「そこでともかくも阿蘇へ登ろう」
「うん、ともかくも阿蘇へ登るがよかろう」


(『二百十日夏目漱石

なんだこの会話。かわいすぎる。
戸塚さん、『野分』読み終わったよ。ついでに『二百十日』も読んだよ。初期の漱石らしく斜めから見た世の中を諧謔的に切り取った作品だったよ。『二百十日』は1906年10月、『野分』は1907年1月が初出なんだって。ちょうど100年前の作品なのに色あせていないってすごいことだよね。いっぱい感想を書いたんだけど、すごく中二っぽくなっちゃったから、青春の小箱に詰めておくことにするね。でも『野分』に出てくる高柳君なんて見事な中二病だったよ。

彼は何事をも知る。往来の人の眼つきも知る。肌寒く吹く風の鋭どきも知る。かすれて渡る雁の数も知る。美くしき女も知る。黄金の貴きも知る。木屑のごとく取り扱わるる吾身のはかなくて、浮世の苦しみの骨に食い入る夕々を知る。下宿の菜の憐れにして芋ばかりなるはもとより知る。知り過ぎたるが君の癖にして、この癖を増長せしめたるが君の病である。天下に、人間は殺しても殺し切れぬほどある。しかしこの病を癒してくれるものは一人もない。この病を癒してくれぬ以上は何千万人いるも、おらぬと同様である。彼は一人坊っちになった。

漱石に先見性があるのか、はたまた人間の本質が変わっていないのか分からないけど、私はこういうことが書いてある小説が好きだよ。

二百十日・野分 (新潮文庫)

二百十日・野分 (新潮文庫)

それにしても青空文庫は素晴らしい。基本的にアナログ人間なので、青空文庫の作品もプリントアウトしていつも読んでいたんだけど、本を持つのもおっくうなくせに何か読みたくてしょうがないとき、厚みも重みも感じさせないブラウザだとさくさく読めるというのが本日の収穫。