愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

演技者。『家が遠い』・最終話

「こいつらとは離れがたく、家は遠い」
ナレーションでこんなようなことを言っていたけれど、「家が遠い」という感覚はよく分かる。若い人は若い時間が短いなんて分からないと思われがちだけどそんなことはなく、本能的にこの時間が短いことを理解していたような気がする(過去形なりつつあるのが悲しいが)。だから理由の分からない焦燥感に駆られたり、明日もまた会える友人と離れがたく思ってしまうんだと思う。


放課後、友人とくだらないことをただ話し続ける空間には夕暮れという曖昧な時間との相乗効果もあり、どこか現実感のないふわふわとした居心地の良さがある。夜になってしまうともうそこには現実感が満ち始め、子供たちは「家」という「現実」へ帰っていく。


「家」というのは「現実」のメタファーなんだと思う。子供にとっての「現実」とは「大人」と言い換えても良い。自分がいつか「大人」になるという「現実」が横たわっている場所、そこが「家」だ。特にトミーの場合、家には直面したくない現実がたくさん横たわっている。貧しく狭い部屋、高校に行けないということ、働かなければならないということ……。自分の意思に反して、無理矢理「大人」にさせられてしまう場所、そういう「現実」が横たわっている場所、それがトミーにとっての「家」だ。


『家が遠い』というのは実際的な距離が遠いということではなく、単純に家に帰りたくないということとも少し違う。「家」は遠くて近いものだ。立ち上がるまでに躊躇しても、歩き始めれば案外近い。夜になればいやでも「家」に帰らねばならない。同じように歳を重ねれば、子供たちはどんなにいやでも「大人」という「現実」に立ち向かわねばならない。自分が黙って寝てばかりいても突然暴れ出しても、それをなんとなく受け入れてくれる仲間たちとの時間はトミーにとって残り少ないモラトリアムであり、すぐに消えてしまいそうな遊びの火葬はその象徴のようにも思える。火葬が終わる時、子供たちの時間は終わり、夜が来る。トミーも他の仲間たちも「家」という名の「現実」へ戻っていくのである。


…今、演技者。最終回見返そうとしたら、なんか知らんが最終回だけ消しちゃってるゥ!!NO〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!