愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

カラマーゾフの兄弟がやばい

しばらく日記は書かないつもりだったのに、あまりにも腹が立ったから書いてしまった。はぁ。しょうもない愚痴なので隠します。ジャニーズは関係ありません。最近こういうことでしか怒ってないな。良いんだか悪いんだか。




カラマーゾフの兄弟』の中巻を読み返していた。新潮文庫ドストエフスキーには「圧倒的」という言葉が似合う。その物語性も人物造詣の奥深さも込められた思想も圧倒的。読むたびに新しい発見がある。すごい。本当にすごい。ただただ圧倒される。イワンとスメルジャコフの対話に満ちた緊張感といったら!電車で読んでいたにも関わらず打ち震えた。「してみると、賢い人とはちょっと話してもおもしろい、と世間で言うのは本当でございますね」なにこれ!スメルジャコフすげー!この圧倒的な陰湿さ!こんなに打ち震えたのは翼魂の『仮面』でTJがマイクを持っているのを見た時以来だ。あるいはニウスコンでTJがピースのサインを凄まじい勢いで繰り出していたのを見た時以来だ。スメルジャコフすげー!なんかむしろTJがすごい気がしてきた。TJすげー!

『今までのことはみんな、さよならだ。これまでの世界とは永久に縁を切って、何の消息もきかぬようにするんだ。新しい世界へ、新しい場所へ、あともふりかえらずに入って行こう!』

このイワンの台詞が染みる。そのままゾシマ長老の説教を読んでいたらうっかりキリスト教に帰依しそうになった。楽園か。楽園ね。帰依するかどうかはともかく、こういう小説を読むとミッション系の学校に通って良かったなぁと思う。キリスト教の知識がなければ絶対半分も理解できないもの。
で、今更ながら感激してしまった私は、こりゃもうドストエフスキーを極めるしかないと思って本屋に行き、『悪霊』と『白痴』のどちらから手をつけるかなーなんてウキウキとページを手繰っていたのだけれど、なんだか妙に文字がでかい。数えてみると、私が持っているカラマーゾフは1ページ22行だが、今の本屋に置いてあるカラマーゾフは1ページ16行しかないのである。なんじゃこりゃ。確かに文字の大きさと内容の濃さに関係はない。むしろ目の健康を考えたら字を大きく行間を広くした方がいいのだろう。でも私は字がでかいと妙に損をした気分になってしまう。行間にこれでもかと詰め込まれた思想が霧散してしまったような気持ちになってしまうのである。講談社文庫から出ている『虚無への供物』もそうだった。元は全1巻だったのに、いつからか文字が大きくなって上下巻にわかれてしまっていた。無性に悲しかったことを覚えている。そもそも最近の講談社文庫のフォントは雰囲気がないからあんまり好きじゃないんだけどさ。フォントはともかく、字がでかかろうが小さかろうが読む人は読むし読まん人は読まんというのが私の考えである。
まあ文字の大きさはとりあえず許す。私もあと20年もしたらこんなちまちました文字は読めなくなるだろうし。問題は表紙のデザインである。
カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)カラマーゾフの兄弟〈中〉 (新潮文庫)カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫)
何このセンス皆無なデザイン!終わってる!ドリボズの脚本くらい終わってる!
元のはこれ。

一冊多いのは『死の家の記録』です。私はこの陰鬱なデザインが好きだったのよ。はぁ。なんだよ、あれ。
私が去年一番腹が立ったことは河出文庫の装丁が改悪されたことなんだけど、それと同じくらいの憤りを覚えた。
こういうことがあると、世の中がどんどん悪くなっていってるように思えてしまう。