愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

『勇気100%』を歌っていたら、ちょっと泣きそうになったんですよ。これは良くない兆候なんですよ。たとえば『Love Me Baby』を歌いながら、きらきら笑顔な山田様を、かっこつけありーたんを、ソロパートでイケイケイケメンな高木を思って泣くならいいんですよ。歌と涙の間に彼らが介在するならいいんですよ。でも私は『勇気100%』を歌いながら、ただ泣きそうになってしまったんですよ。ジャニーズの曲を歌って泣くときは、いつでも彼らを介在させたいんですよ。それは山田様でもやっさんでも生田さんでも風間さんでも戸塚さんでもエイトでもトップスでもやまとまでも誰でもいいんですよ。誰かがいてくれればいいんですよ。誰かがいてくれきゃ駄目なんですよ。『勇気100%』という、かつでサマリーで山田様がついていたこともある曲を口ずさみながらも誰のことも思わず、ただなんとなく歌詞が身に染みて泣くなんて駄目なんですよ。あまりに利己的なんですよ。少なくとも私はそんな自分が厭なんですよ。そんなの自分の足を食らう蛸と同じなんですよ。

どこにも餌食がなく、食物が全く盡きてしまつた時、彼は自分の足をもいで食つた。まづその一本を。それから次の一本を。それから、最後に、それがすつかりおしまひになつた時、今度は胴を裏がへして、内臟の一部を食ひはじめた。少しづつ他の一部から一部へと。順順に。
かくして蛸は、彼の身體全體を食ひつくしてしまつた。外皮から、腦髓から、胃袋から。どこもかしこも、すべて殘る隈なく。完全に。
萩原朔太郎「死なない蛸」、詩集『宿命』より*1

そうして「或る物すごい缺乏と不滿をもつた」生き物ができあがるんですよ。私はそんなものになりたくないんですよ。死なない蛸なんて厭なんですよ。だからいつでも彼らがいなければ駄目なんですよ。