愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

沖縄で「eighter」について思ったこと

エイト沖縄コンに行ってきました。小さい会場の方です。ってもう1ヶ月前のことをなんで書こうと思ったのかというと、ガイドの表紙のやっさんがめちゃんこかわいかったからです。やっさんって夏とか南国とか似合うよね!やっさんのイメージフラワーはひまわりですから!
沖縄のコンサートはなんだかすごく良かったです。良いなぁと思ったんです。客層が昔の松竹っぽかったんですよ。やっぱり沖縄まではある程度の財力がないと来られないんだろうなっていう(笑)そのせいなのかどうなのかよく分からないけど、良かったです。そういえば村上さんが「eighter」って言う言葉を使っているのを初めて聞いた気がするけど、横浜でも言ってたっけ?記憶にないけど、すばるさんが言うならまだしもシンゴが言うと滅茶苦茶違和感があるんですが(しかも「eighter」じゃなくて「エイター」って感じがする)、もう決まり文句みたいになってるんでしょうね。私は「eighter」って言葉は使わない、というか使えないんですけど、別にそこに深い意味はなくて、やっさんのことを「章太(はあと)」あるいは「ヤス」って呼べないのと一緒です。なんだか気恥ずかしい。そもそも「担当」って言葉もあんまり使えないしなぁ。でも「担当」という言葉が使えないのと、「eighter」って言葉が使えないことはちょっと違う気もする。「担当」は頑張れば使えそうだけど(別に頑張る必要はないけど)、たぶん「eighter」は一生使えない。
で、今更「eighter」という言葉について考えてみたんだけど、「eighter」って言葉の線引きの曖昧さが苦手なのかもしれない。もともとこの言葉ってすばるさんが言い出した言葉だけど、すばるさんってきっとファンと一つになりたいタイプじゃないですか。「俺もeighter、お前らもeighter。俺たちおんなじだぜ!仲間だぜ!兄弟だぜ!」みたいな感じ。でも私はどちらかと言えば傍観者でいたいタイプのファンなんです。エイトと自分の間にきっちり境界線を引いて、その上で彼らを見つめていたい。「大倉になってやっさんのつむじを上から眺めてみたい」とは思うけれど、自分という人間をエイトの中に入れたいとはまったく思いません。ドリーム小説が苦手なのは多分そこなんだと思います。私はエイトというグループにとっては異物なんです。私が入ったら台無しなんです。まぁなんとも興ざめなのです。アイドルには現実逃避も求めてるから、私なんかがいたらむしろ駄目なんです。これはファンとしてのスタンスの問題なので、どっちが正しいというのはないです。ただ単純に私がそうなだけです。
「eighter」という言葉はエイトメンとエイトファンの線引きがすごく曖昧なんです。「担当」という言葉は「担当するもの」「担当されるもの」がはっきり分かれているので、まだ使える気がするのですが、「eighter」ってメンバー、ファン、どちらに対しても言えちゃうじゃないですか。高さが同じなんですよ。同じ土俵、同じステージに乗っちゃうんです。私はそこに尻込みしてしまうんです。別にエイトになりたいんじゃないんですよね。ただ単にエイトを見ていたいんです。双眼鏡でガン見したいんです。
ただかつての松竹座におけるエイトとファンの共犯者めいた関係は好きでした。むしろ誇りでした。あの頃はエイトの「俺たちに付いてきて下さい!」という願いと、ファンの「私たちがエイトをのし上がらせてみせる!」という意地がかっちりと噛み合っていて、とても心地よかった(傍から見ればそれが「宗教担乙」な状態だったんでしょうが)。それに対して今は「みんなでのし上がってこーぜ!」って感じがします。きっとこの変化は良い変化なんだろうけど、私はそこに入っていけないなぁと思ってしまうんです。
一時期ジャニーズ内に「ノーボーダー」なんて集まりがありましたけど、あれもあまり好きじゃなくて、基本的に私は線引き人間なんだと思います。線引きして自分の立ち位置を明確にしていないと不安になってしまう。あとジャニーズにはヒエラルキー萌えもしてるっていうのもあるかな。ジャニーズの徹底された縦社会が好きです。
なんか話が逸れてきたけど、とにかく「eighter」という線引きの曖昧さが私は苦手です。というかそこまで自分に自信が持てません。「私なんかが」と思ってしまうのです。この「私なんかが」という感覚はジャニーズに関わらず、オタクを語る上でものすごく重要なファクターだと個人的に思っています。が、それはまた別のお話。