愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

闇の子供たち

昨日は珍しく映画なんぞ見てきた。

カラマーゾフの兄弟』を読んでから、「子供の幸福」についてしばしば考える。イワン・カラマーゾフは幼児虐待に関する記事を収集しており、キリスト教で説かれる永遠の調和に罪のない子供たちの苦しみが必要なのであれば、そのような神は認めないし、いっそ報復できぬ苦しみを持ち続けた方がいいと断言する。私自身、子供が苦しむような世界なんてイワンの言う通り「悪魔にでもさらわれりゃいい」と思う。

すべての大人はかつては子供だった。すべての子供が愛されて幸福になり、その子供たちが大人になって同様に子供を愛せば、幸福の連鎖は簡単に作ることができるはずである。けれども現実には「幸福の連鎖」よりも「不幸の連鎖」の方が数多くあり、後者の方が鎖同士が固く複雑に繋がれていて、それを断ち切るのは難しい。その「不幸の連鎖」を描いたのが本作である。

この作品には「幼児売春」と「臓器売買」の2種類の幼児虐待が描かれており、この2本の柱を軸に物語が展開していく。その過程で「買う者」と「買われる者」のあらゆるパターンが示される。パターンなどという物事を単純化するような言葉を使いたくないが、実際に存在しうるであろうあらゆる運命の雛型を一通り描ききったことが、この映画の最も評価されるべき点なのではないかと思う。だから多少唐突に思えても、ラストはああでなければならなかったのだ。あのラストがあって、初めて「不幸の連鎖」のピースがすべて揃う。そしてその闇の深さを思い知る。

もし子供たちの苦しみが、真理を買うのに必要な苦痛の総額の足し前にされたのだとしたら、俺はあらかじめ断っておくけど、どんな真理だってそんなべらぼうな値段はしないよ。
ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』)