愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

山田くんお元気ですか?

山田くんはラジオで「嬉しい」が分からないと言ってましたが、愚民は忙しいと「悲しい」がよく分からなくなるみたいです。なんだかもう何でも幸せに思えてきます。お昼を食べられて幸せ、トイレに行けて幸せ。駅から会社までの道のりを歩いていると、なぜかキリーロフの言葉が頭の中をめぐります。

「すべてです。人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないから、それだけです。これがいっさい、いっさいなんです!知るものはただちに幸福になる。その瞬間に。あの姑が死んで、女の子が一人で残される――すべてすばらしい。ぼくは突然発見したんです」
「でも、餓死する者も、女の子を辱めたり、穢したりする者もあるだろうけれど、それもすばらしいのですか?」
「すばらしい。赤ん坊の頭をぐしゃぐしゃに叩きつぶす者がいても、やっぱりすばらしい。叩きつぶさない者も、やっぱりすばらしい。すべてがすばらしい、すべてがです。すべてがすばらしいことを知る者には、すばらしい。もしみなが、すばらしいことを知るようになれば、すばらしくなるのだけれど、すばらしいことを知らないうちは、ひとつもすばらしくないでしょうよ。ぼくの考えはこれですべてです、これだけ、ほかには何もありません」


ドストエフスキー『悪霊(上)』)


この言葉に嫌悪感を抱いていたはずなのに、最近は自分に近しい思想であるように思えてきました。山田くんはどう思いますか?先日setsu_uさんから教えていただいた(id:setsu_u:20100307:1267983337)『MORE』の3月号に載っていたという山田くんの言葉は、キリーロフの言っていることとあまり変わらない気がします。

僕、思うんですよ。不幸には理由があるけど、幸せは実感するだけで獲得できるって


「嬉しいが分からない」と言っているよりは、前向きな言葉なように思えます。だけど、私にはこの言葉の方が不健康に思えます。人が幸福について考えるのは、その手のうちから幸福が零れ始めた時だと思うんです。満腹の人間が翌日の食事のことを考えるでしょうか?きっと失うことを恐れた瞬間、人は幸福を実感するんです。そして、その時には既に幸福は失われ始めている。そう考えると、山田くんの「生きてるだけで幸せです」という言葉は、生きることの幸福が少なくなりつつあることの裏返しであるような気がすらしてきます。16歳の少年が辿りつくにはまだ早すぎる言葉です。


山田くんはチェーホフは読みますか?チェーホフの『ねむい』という小説だけでも読んでみて下さい。たぶん10分もあれば読めると思います。眠る間もなく働かされている13歳の女の子が少しずつ狂っていく姿を淡々と描いた短編です。

ワーリカは、木のようになったコメカミを両手でしめつけて、にっこりする。何がうれしいのか、自分でもわからない。

チェーホフ『ねむい』)


「嬉しいが分からない」と思えているうちは、まだ幸せなのかもしれません。理由もなく笑えてしまうようになった時、本当の不幸が始ります。山田くんはそんなにやわじゃないと信じたいのですが、アイドルは嬉しくなくても笑わなければならないお仕事なので少し心配です。
ドラマお疲れ様でした。幸せのことなんて考えなくていいくらい、幸せな時を過ごせているといいなぁ。