愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

センターに立つ人間の滑稽な切なさ

Nさんに捧げる亀梨さん切ないキャンペーン、のはずが途中からなぜか山田くん切ないキャンペーン。悩みすぎてグダグダになってしまいました……。カツンコンのネタバレも若干含みます。



恐怖すべき或物を眼前にして、これが格別に崇高とか厳粛とかの印象を与えなかった場合に、われわれは笑という誤魔かしの手によって、当のものと妥協しようとするのである。
稲垣足穂少年愛の美学』)


アイドルは時に嘲笑の対象になる。それはたぶん、アイドルがとても分かりやすいものだからだ。知恵の実を食べてしまった人間にとって、理解できないことはもはや恐怖だ。だから、人は分かりにくいものを敬い、分かりやすいものを笑う。


私は亀梨さんにさして興味はない。ただ、ジャニーズ野球大会でピッチャーとしてボールを投げる亀梨さんのことは昔から好きだった。ジャニーズの野球大会なんて、はっきりいってお遊びみたいなものなのに、亀梨さんは常に真剣に人を殺せそうなくらい鋭い目をしてボールを投げる。その姿には鬼気迫るものがあって、目が離せなくて好きだった。
亀梨さんは「ほどほどに」とか「適当に」というセーブができない人なんだろう。かつて、ひらめ筋という番組で、芸人チームとジャニーズJr.チームがバレーボールの試合をしたことがあった。みんなで円陣を組んだ時、キャプテンの亀梨さんの選んだ掛け声は「WE ARE WIN!」だった。「試合」である以上、真剣勝負で臨み、勝利を貪欲に追求する。「お遊びなんだから、そこまで真剣にならなくても」と笑う人もいるだろう。だけど、亀梨さんは適当にこなすことができない。露悪的に言ってしまえば「空気の読めない人」だ。


最近、アイドルのパブリックイメージと、それに対する本人たちの意識について考えていた。きっかけはJUMPのアルバムで、山田くんが「真紅」という山田くんのパブリックイメージすぎる曲を書いてきたからだ。山田くんのソロ曲にはセクシャルな匂いのするものが多いけど、山田くん自身はまっすぐで、わりとほのぼのとした性格の持ち主なので、彼の中をひっくり返して探してもそういう曲を作れるような要素はないと思う。テレビ雑誌のインタビューで、山田くんは「少女漫画を参考に作った」とのたまっていた。知念様が自分のパブリックイメージを逆手に取った「すまいるそんぐ」なんていう人を食ったような曲を作詞してきたのに比べて、山田くんは自分のパブリックイメージにがんじがらめにしばられている。少女漫画を読んでまで、自分のパブリックイメージを追求する山田くんは必死すぎて少し滑稽だ。


カツンのパブリックイメージは、他のジャニーズグループよりも明確で分かりやすい。そして、それを一番意識しているのは亀梨さんなんだろう。聖も意識はしているだろうが、あの人はとんでもなくしなやかな人なので、自分らしさとカツンらしさの間の折り合いを無理のない形で付けているような気がする。それに対して亀梨さんはカツンの「セクシー」というか、もっと有体に言ってしまえば「エロ」の部分を物凄く意識的に、たぶん勝手に背負っている。2008年ドリボの「離さないで愛」、去年の「1582」、そして今年の「LOST MY WAY」、どれもケレン味たっぷりで見ているだけで胸焼けしそうな演出を亀梨さんは大真面目に演じきる。

今回のコンサートでは、とにかくメンバー(特に中丸くん)と楽しそうに絡んでいる亀梨さんの姿が印象的だった。「カツンでいられて幸せ」と亀梨さんは語っていた。カツンの亀梨さんにはギラギラしたイメージしかなかったんだけど、メンバーと一緒にいられる幸せを素直に語る方が亀梨さんの本質に近いんだろうなぁと思った。


すごく失礼な話だけど、私は亀梨さんが本気であればあるほどちょっと笑ってしまう。ヴァンパイアがモチーフだからと言って、律儀に牙と血の跡まで付けてしまう亀梨さんの生真面目さは、盲目的なファンの目には崇高なものに映るのかもしれないけれど、傍から見ればその若干時代遅れな生真面目さは少し滑稽だ。


いつでも一生懸命さと滑稽さは紙一重の位置にいる。


また山田くんの話に戻る。JUMPのアルバムが出ると発表された春コンで、山田くんは作詞をしたいと発言し、「やっぱりラブソングですかね」と記者に向かって語っていた。たぶん山田くんファンは誰ひとり望んでいないだろうけど、山田くんは勝手に求められている(と思い込んでいる)イメージを背負っていた。


センターに立つ人は、なぜかみんな勝手にイメージを背負う。悲壮な覚悟を伴い、大真面目に背負う。その様子が少し滑稽で笑えるのは、たぶん彼らがとても分かりやすく一生懸命だからなんだと思う。笑えれば笑えるほど、滑稽であればあるほど、一生懸命さは肯定され、彼らの真面目さは悲壮感を増していく。ファンの崇拝と、その他の人間の嘲笑、それらすべてを背負いこんで、彼らは今日もセンターに立つ。