愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

知念様と餃子と生への擬態

今日はおたくの方と餃子を食べました。知念様の好きな餃子。知念様は本当に餃子が好きなんだろうかと時々思う。




最近、食べることは生きることだとしみじみ思います。今週は(も?)ほとんどお昼休みがとれなくて、大抵夕方になってようやく食べ物を口にすることが多かったのですが、咀嚼して飲み込むという行為に「生への欲求」みたいなものを感じるんですよね。食べる前まではへとへとに疲れて真っ直ぐ歩くこともできなくて、食べたってどうせ出すんだしもう食べなくてもいいかなとか思うんだけど、一度口にすると止まらないんです。噛み締めるたびに力が湧いてくる。普段は飢えとは程遠い生活を送ってますが、時折「食」という行為に剥き出しの「生」を感じます。
2日の日記でも「食」について書いたんですが、時々、知念様の「食」に対する欲求の薄さがそのまま「生」に対する欲求の薄さに直結しているような気がして切なくなるんです。本当は好きな食べ物なんてないけど、ないとおかしいと思われるから、一番当たり障りのない「餃子」と答え続けているんじゃないだろうか。そう考えると、知念様の餃子好きというアピールは生への擬態のようにも思えてくるんです。
だから、最近の「友達と一緒に食べ歩きにはまっている」というインタビューを読むと、知念様がようやく生きることを楽しみ始めたような気がして嬉しくなります。もっとたくさん食べて、もっと健やかに大きくなって下さいね。
おやすみなさい知念様。