愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

極彩色の檻

最近17歳の知念様の美しさにずっと打ちのめされていて、その理由を何度も書いたのですが、全部消してしまいました。私なんかが語れるわけないのです。
ただ、私は17歳の知念様を全力で追うためにあのタイミングで知念様を発見したんじゃないかと思うんです。私にとって「知念様」は発見でした。ずっと「知念くん」のことを知ってはいたのです。ただ、見つけていなかった。「おおきくな〜れ☆ボク!!」を聴いて、私は「知念様」を発見しました。そこから、私の知念様探究の道が始まりました。知念様を見出し、自分の中で咀嚼するためには時間が必要でした。たぶん声変わり前の知念様を好きになっていたのでは、早すぎたのです。かと言って、17歳前夜の知念様を好きになっていたのでは遅すぎたんです。

この話は続くかもしれません。続かないかもしれません。

あとは、サマリーが知念様から奪ったものについてもずっと考えていました。今年の夏も知念様は17歳という美しく儚い時をあの極彩色の檻の中で浪費していくんですね。そのことを思うと胸が痛くて仕方がありません。でも17歳の美しさには格別なものがあって、汲んでも汲んでも汲みつくせない泉のごとく、どんなに奪われても決して枯渇することはないので、私は嘆きながらも自分の欲望の赴くままに貪ってしまうのだと思います。サマリーは極彩色の檻であり、欲望を映す鏡です。恐ろしい。

明日は大阪に行ってきます。