愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

『超高速!参勤交代』とA感覚

まだ病みあがりのため舞台挨拶はパスして、地元の映画館で初日に見てきました。予告でやたらとエイトレンジャーの宣伝をするなぁと思っていたんですが、この映画を見に来るジャニヲタを対象とした宣伝であることに気付き、こんな外部の大衆映画の中において一人でジャニーズの看板を背負っている知念様かっこいい(泣)と予告の時点でもはや泣いていました。
映画自体は不必要な悲劇のない、とても安心して見られる娯楽作品でした。ジャニーは悲劇が大好きだけど、私はこういう話が好きです。パンフレットにありましたが、脚本家の土橋さんは被災地を見てこの脚本を書くことを決めたそうで、東北の良さを表す表現が随所にちりばめられているのですが、最後の殿様の言葉にはじーんと来ました。こういう押しつけがましさのない応援はいいなぁ。


超高速で男たちが参勤交代をする話なので、画面には土臭い雰囲気が常に漂っているのですが、そんな中で小さく佇んでおられる知念様が可憐で美しくてかわいくてかわいかった。月代のストイックさがむしろ知念様の清廉さを引き立てていた。むさくるしい男たちの中では、薄汚れていても知念様はかわいらしくて、菊千代(猿)と共に常に一服の清涼剤のごとき役回りを担っていた気がします。小さいけれど弓矢のおかげで見つけやすくて、弓の名手役にしていただけたことに感謝。知念様の殺陣が上手かったため、殺陣の出番が増えたとどこかで読んだけれど、今になってあの辛くて辛くて辛いジャニワでの三か月の経験が活きてきたことにも感動した(もう二度と出なくていいけど)。


映画を楽しく見ている一方で、知念様の顔や太ももは相応に汚れていたのにお尻は真っ白だったことが不思議でした。他の人のお尻は割と汚れていたのに知念様は真っ白。少年誌向けのちょっとエッチな漫画の局部が不自然に隠されているごとく、知念様のお尻は不自然に真っ白でなくてはならなかったのでしょうか。それまでの知念様は野に咲く花のような素朴な可憐さに満ち溢れていたのですが、その白さは高原の花エーデルワイスと呼ぶにふさわしく、愚民は泣きながらエーデルワイスをリコーダーで吹きたいような衝動に襲われました。山田くんは知念様のお尻を「骨があたって固い」とおっしゃっていましたが、どっこい知念様のお尻は画面で見るかぎりは程よい丸みと柔らかさを帯びていて、撮影当時はわりと痩せていらっしゃった知念様もあんなに柔らかそうなお尻を隠していたということに妙な感動を覚えました。


お尻といえば、稲垣足穂という文筆家が有名です。

少年愛の美学 (河出文庫)

少年愛の美学 (河出文庫)


彼は『少年愛の美学』の中で美少年の魅力から飛びに飛んで、P感覚V感覚(要するに性器)と対比させたA感覚(要するにお尻)の素晴らしさを熱弁しているのですが、私は今までなぜ足穂がそこまでお尻にこだわるのか分かりませんでした。けれども、この映画を見てようやく私にもA感覚を賛美する気持ちが分かりました。知念様はお尻も見どころの一つと割り切ってネタにされてますが、例えば知念様の衣装が股間が強調されているようなものだったら(品のない例えですみません)、ここまで大々的かつ直截的には言えなかったと思うんです。お尻だからこそこんな風に言えるんです。先に「少年誌向けのちょっとエッチな漫画の局部が不自然に隠されているごとく」としょうもない例えをしましたが、お尻は隠されるどころか晒されて、しかも老若男女共通の話題にしても微笑ましいものとして処理される独特の性質があります。

東西を問わず、何に彼につけて臀部が引き合いに出される傾向は、取りも直さず、「お尻と主人との親しさ」に由来する。事実、該所は人体の中で最もふくよかな、最も愛嬌のある、最も忍従的な、遠慮がちな、しかも最も高踏的な、最もユーモラスな、しかも適宜に明暗交錯した、且つ何時何時までも齢を取らない、きわめて芽出たい箇所でもある。(中略)でも、Aに焦点を持つお尻が、何故こんなにも親しまれるのであろうか?こんな福福しい、(尻尾の付いていない)臀部を持っているのは人間だけであるからだ。われわれは「共同体」に属していて、食堂的存在であり、またトイレ的存在である。食堂は複数で、トイレは大旨単数である。しかも只ひとりでいる時の伴侶は、P感覚でもV感覚でもない。それはA感覚である。こういう意味で、「お尻」は「人」と同意語である。


「何時何時までも齢を取らない」と部分は映画で一列に並んだお尻を見た後では妙な説得力があります。お尻は第二次性徴以降に意識されるようになるP感覚V感覚と違い、小さな頃から老人なるまで常に身近にあり続けるもので、その親しさとユーモラスな形が相まってこれほどまでに親しまれるものとなったのでしょう。『クレヨンしんちゃん』における「ケツだけ星人」というネタが眉をひそめられつつ笑われていたのも今なら理解できます。

恐怖すべき或物を眼前にして、これが格別に崇高とか厳粛とかの印象を与えなかった場合に、われわれは笑という誤魔かしの手によって、当のものと妥協しようとするのである。


お尻は親しみやすく滑稽な一方で、メトニミー的に性的な意味合いもはらむことがあります。この妖しい魅力はアブノーマルなものであり、人はそこに惹かれる恐怖に抗うために敢えてお尻を笑うのかもしれません。
この「お尻」の在り方は「アイドル」に通じるものがある気がします。アイドルは分かりやすい魅力を持っていますが、安易で滑稽な存在でもあり、良い年をした大人がその魅力を素直に認めることにはそこはかとない恥の意識があります。現に私も普段の生活では知念様の愚民であることを隠しています。
人は嗜好によって、その人となりを測るようなところがあります。例えば、趣味が「アイドル鑑賞」の人と「絵画鑑賞」の人がいたら、後者の方がランクは上だと判断する人が多いと思います。「絵画」の方がなんとなく分かりにくくてなんとなく高尚な感じがするからです。アイドルは分かりやすさに特化した存在です。きれいさやかわいさを表立たせて、分かりやすい歌詞とダンスで訴えかけてきます。この「分かりやすさ」に惹かれることを大人は恐れ、ごまかすために馬鹿にして笑うのです。「お尻」と「アイドル」はその分かりやすさと親しみやすさ故に笑われるところが似ている気がします。


「お尻を出す」という一見アイドルらしからぬ行為は、実は何よりもアイドルらしい行為なのかもしれません。現に知念様はお尻を出してもその清らかさは高まるばかりで、まったく損なわれていません。『人間っていいな』という歌の中で「おしりを出した子一等賞」という歌詞がありますが、お尻を出した知念様はアイドルとして一等賞なのではないでしょうか。アイドルである知念様がお尻を出し自ら笑い飛ばすことにより、知念様はアイドルの限界をアイドルとして飛び越えることにあっさりと成功しています。むしろ、アイドルという存在のエレメントを極限まで純化させて抽出して見せてくれているような気すらします。そう思って改めて見ると、知念様のお尻はアイドルとして何と輝いて見えることでしょうか。

臀部そのものが人間本来の寂寥(ソリチュード)について、何事かを訴えているという点においては、可愛らしいお尻、きれいなお尻、心をそぞろにならしめる場合のお尻の場合と更に変りはない。だから、時たまの不作法な不意な漏音はあるにしても、哀れさと諧謔味とをこちらは覚えこそすれ、お尻そのものへの反感は起り得よう筈はない。


アイドルは時に馬鹿にされる存在ではありますが、お尻同様知念様自身に反感も持たれることはほとんどなく、どこに行ってもそのかわいらしさ故に愛されています。知念様を見ていると時折寂寥を覚えることもありますが、それは知念様がかわいらしいお尻を持つアイドルであるが故の宿命なのかもしれません。これからもアイドルとしての知念様、そして知念様のお尻を応援し続けていきたい、そう強く思いました。


お尻の話が長くなりましたが、知念様は要所要所で見せ場があって、最後の見せ場が私は特にお気に入りです。『あの鐘を鳴らすのはあなた』を熱唱したくなる良いシーンです。知念様がいちいち「〜でぃす」と話すので、段々知念様が『ぼのぼの』のシマリスくんに見えてきて、最終的には「知念様シマリスかっこいい(泣)」と泣きながら映画を見終えました。


私の感想はともかく、本当に面白い映画なので見てない方は是非見に行ってみて下さいね。知念様、ごめんなさい。