愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

健ちゃんと私

昨日の日記にありがたいことにコメントいただけたので嬉々としてお返事させていただいたのですが、あまりにそのレスが長くて我ながら愕然としました。ちょっと気持ち悪いですよね、すみません…。健ちゃんへの思い入れが思った以上に炸裂しておりました。しかもこの小見出しのタイトルがまた……嗚呼…。

健次郎を超える超えないということを昨日書いたんですが、「超える」ってそもそも何なんでしょう。

漫画でも小説でもドラマでも、その内容以上に大切なのが「その作品に出会った時期」だと思うんですよ。「この本は10代の時に読みたかったなー」とかよく聞く言葉ですよね。私が金八第5シリーズを見ていた時期って、なんかドラマの内容と自分の心情がジャストミートだったんですよ。健ちゃんと自分をダブらせまくりだったんです(別に引き篭もりの兄ちゃんがいたとかそんなんじゃないけど)。あの時に見られてよかったと心から思えます。だから私にとって、健次郎を超える人物というのはありえない。しゅうがどうこうではなく、私の中であまりに健次郎という人物が固まり過ぎているんです。たぶんおばあちゃんになってもずっと好き(照)

それと同じように、しゅう以外にありえないという人もきっとこれから出てくるはず。でもそれは「超えた」ってこととは少し違う気がする。なんかよくわからなくなってきたー。つーか、超えるとか超えないって一般的な見方からしてってことだよね。私は個人の問題にすりかえて話しているからわけが分からなくなってるんだな。

結局分かったのは、自分が健ちゃんのことを好き過ぎるってことだけだ。