愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

演技者。 眠れる森の死体・第2話

生田さんのビジュアルレベルが上がった気がする。時間が経って髪の毛のペッタリ感が薄れたせいだと思う。かっこいいな!風間さんの演技より生田さんの演技の方が安心して見られる。風間さんのワル喋りってどうも力が入り過ぎなような…。単に私が力を入れて彼を見過ぎなせいかもしれない。でも「昨日の友は今日の敵?」と比べると生田さんの演技はこなれたんじゃないかな。顎を突き出して立つ癖がなくなったと思うんだけど。やっぱり生田さんには舞台よりテレビに出てほしいっす…。以下、内容に触れた感想メモ。まだメモです。あとで文章化したい。(しました。)




ナレーション、前回は「座長はわたくしイクタトウマと、カザマシュンスケが〜」だったけれど今回は「座長はわたくしカザマシュンスケと、イクタトウマ〜」となっていてなんとなくいいなぁと思った。
少年法をテーマに描くジャーナリスティックエンターテイメント」とナレーションで風間さんが言っていたけれど、いまのところジャーナリスティックな展開になるようには思えないし、「少年法」に焦点を絞っているようにも見えない。先週の「お互い、少年Aっつーわけだ」というオサナイ(風間)の台詞くらい。でも先週も今週も「少年犯罪」ではなく「少年法」についての作品だと言ってるんだよなぁ。今後はそっち方面に展開していくのかしら。ただエンターテイメントと銘打っているだけあって特に問題意識を持って見ていなくても楽しめる作品になっている。少なくとも妹は「うわー怖いね〜」なんて言いながら普通に面白がって見てくれている(ちなみに「アメリカ」は2週で脱落していた)。


少年法や少年犯罪がテーマらしいけれど、その奥底にあるのは「ディスコミュニケーション」だと思う。先週あきらが言っていた「記号の会話」というのもここに繋がるんじゃないかな。「女子高生の心は藪の中」と女医は呟き、猪瀬教授はオサナイとエイジ(生田)に向かって「君たちは肝心なことは何も話さない」と嘆く。しかし猪瀬教授(この作品の中で「大人」の役割を一身に担っている気がする)もオサナイの質問には答えずに去ってしまう。大人も子供に対しては「肝心なことは何も話さない」。大人と子供のディスコミュニケーション
オサナイ、エイジ、猪瀬の3人の場面では「大人と子供のディスコミュニケーション」の他に「親と子供のディスコミュニケーション」も描かれている。猪瀬はエイジの父親であり、白いキャンバスには「EIJI」と描いてあるにも関わらず、猪瀬はまずオサナイに向かって「これは君のか?」と尋ねる。あきらはエイジに対して「オサナイに気付いて欲しいからキャンバスに名前を書いているんでしょ?」と聞いていたが、エイジはオサナイ以上に自分の父親に自分の存在を気付いて欲しいのかもしれない。だからわざわざ病院の裏で自分の影の写真を撮り続けているのではないだろうか。一度もエイジの名前を呼ぶことなく去った猪瀬に対して疑問を持ったオサナイは、幸福な家庭で育ったか、逆に両親を早くに亡くしたかのどちらかだろう。


ディスコミュニケーションは大人と子供の間だけにあるものではない。猪瀬教授は助教授の考えていることも分からないというし、更に子供同士の間にもディスコミュニケーションは存在する。分かりやすいのはオサナイとヒロミの会話で、前回はまったくヒロミの話を聞いていなかったオサナイが、今回はヒロミに話を聞いてもらえずにキレている。それでもオサナイはヒロミに信じてもらえなければ意味はないと思っているから面白い。オサナイにとっては自分が友達だと信じている人間に信じてもらえなければ意味がないのであろう。前半ではオサナイはエイジに向かって「オメーと(あきらを)見ても仕方ねーんだよ」と言っているが、後半ではあきらと話していたというエイジの言葉に対して「信じる、オレは信じる」と微妙に対応が柔らかくなっていたので、今後二人の関係は変わっていくのかもしれない。
もう一つのディスコミュニケーションはあきらとオサナイの関係だろう。エイジにだけあきらの姿が見えるのは、あきらとエイジが「オサナイに伝えられない想いを抱いている」という部分に共鳴しているからだと思う。オサナイは「オレに伝えたいことがあるならオレ前に出りゃいいだろ」と言うが、彼の性格からいって直接言ってもあまり伝わらなそうな気がする。
それと全体的に見て、大人は「理解する」ということ、子供は「信じる」ということに重きをおいて人間関係を築いていると思った。


さっ、というわけで(風間風)、「ディスコミュニケーション」と「信じること」という二つの部分に注目して今後も見ていこうと思う。にしてもくどい文章だな…。


あと、なんとなく気になったのが「ちっちぇえサイズのベッドで寝てると体もそのサイズにおさまっちまう気がしねぇ?」というオサナイの台詞。規定の価値観に押し込まれることに対する嫌悪感のようなものを感じた。でもオサナイって実はそういう価値観にがんじがらめに縛られている人間なんじゃないかしら。意外と常識人っぽそう。そしてその自分のベッドに自分の知らない死体。自分の価値観が侵食される恐怖。来週が楽しみです。