愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

トマゴト感想連続3ヶ月更新を目指していたのですが、あっさりその目標が破れてしまいました。それというのも昨日は『クラウディア』のビデオに見入ってしまったからです。あの舞台は本田美奈子さんのハミングで始まります。歌声は力強く生命力に満ちていて、鳥肌が立ちました。以下、どうでもよい文章です。




高校生の時(中学生だったかもしれません)に同級生の母親の訃報に接して、なぜか分からないけれどひどく動揺してしまい自宅に帰ってから大泣きしたことがありました。普段私はあまり涙を流しません。映画などで感動してもせいぜい両目から1粒ずつしか出ません。目医者で言われたことがあるのですが、私の涙は普通よりドロドロしていて流れにくいのだそうです。そんな私が泣いているものだから家族は驚いて「その子は親しかったの?」と聞きましたが、はっきりいって私はその同級生とはほとんど話したことすらありませんでした。家族がそんな私を不思議そうに見ていたことを今でも覚えていますし、私自身なぜ自分が泣いているのかさっぱり分からないまま号泣していました。その子に対する同情という思いも確かにあったと思います。しかし今になってみると、あまりに突然に死を身近に置かれたことに対する動揺がその原因だったような気がします。


普段私たちは死というものを意識せずに生きています。若ければ若いほどそうです。死は必ず訪れるものでありながら、なんとなく対岸の火事のようにも思えるものです。同級生の母親の死はあまりに唐突でした。けれども彼女自身はずっと死の恐怖と悲しみを抱えながら日々を過ごしていたのだと思います。すぐ身近にそういう人がいたにも関わらず、私は死なんてものはまるで忘れて生きていました。対岸の火事でした。しかし思いもよらないほどすぐ近くでその火事は起こっていたのです。そのことに動揺して私は泣いてしまったのではないかと思います。死を忘れて生きていた自分に対する恥の感情、死に対する恐怖、そんなようなものが突然まとめて襲いかかってきて私の心をひどく揺すぶったのだと思います。


昨日「1ヶ月くらい前によく本田さんのベストアルバムを聴いていた」と書きましたが、その頃ふと「本田さんの病気はもう良くなったのかな」と考えたことがありました。私はその時「良くなっているに決まっているだろう」となんの根拠もなく思い、そのまま本田さんの病気のことなど忘れてしまいました。今朝改めて本田さんの訃報にテレビや新聞で触れて、同級生の母親が亡くなった時のような動揺に襲われました。当時ほど感受性が強くないので泣きはしませんでしたが、食事が喉を通りませんでした。私は今回も死を対岸のものだと思い込んでいました。私が何の根拠もなく本田さんの病気は快方に向かっていると思っていた時も、本田さんはご自分の病気と、そして死の恐怖と戦っていたのだと思います。そう思うと、なんだか自分がものすごく恥ずかしい人間のように思えてなりません。私にできることなど何もありませんでしたが、せめて少しでも知ろうと努力するべきだったと思います。どうしようもない気分です。


おとといから読み始めた宮本輝の『錦繍』という小説を今朝電車の中で読み終えました。「生きていることと、死んでいることとは、もしかしたら同じことかもしれない」という言葉が何度となく出てきました。常に死を意識して生きる必要はないと思います。けれどもあまりに鈍感になると、生に対しても鈍感になってしまうような気がします。今、鈍感に生きていた自分が無性に恥ずかしいのです。


……なんだか高校生の作文みたいだな。でも少しすっきりした。明日からはトマゴト感想がつがつ書こう。死を悼むことは大切だけど、生きてがんばってる人を応援することはもっと大切だ。