愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

『新本格魔法少女りすか』に見る「少年萌え」の正体

荒木先生と西尾さんの対談を読んで興味が湧いたので読んでみた。西尾作品は『きみとぼくの壊れた世界』しか読んだことがありません。

新本格魔法少女りすか (講談社ノベルズ)

新本格魔法少女りすか (講談社ノベルズ)

確かにジョジョっぽい。魔法使いといっても「属性(パターン)」と「種類(カテゴリ)」が決まっていて限られた能力しか使えないし、「どんな能力だって、強いとか弱いとかじゃ測れないさ――要するに、大事なのはその能力を使いこなせるがどうか、だ」(P.34-35)という考え方はまるっきりスタンド能力にも言えることだもんね。なるほどー。第三話なんて超ジョジョっぽかった。つーかジョジョだった。熱い冷静さって言うんですかァ、そういうとこが。

主人公は二人。魔法使いの少女りすかと普通の人間の小学生創貴。この創貴が10歳の小学5年生という萌え設定(最近の私のストライクゾーンは小5〜中2)にも関わらず、まったく萌えなかった。この私を萌えさせないとは…。主人公の創貴は子供の癖に大人のことを分かったような、あるいは大人以上の知性と知識を持っていると思いこんでるこまっしゃくれたガキで、こういう生意気なお子さんはかなりの勢いでツボなはずなのですが(カラマーゾフのコーリャたんとか)、この子には萌えなかった。特に第二話を読み終えた時には嫌悪感すらおぼえたほどで、もう読むのはやめようと思ったんだけど、折角なので第三話まで読んでみた。ら、突如創貴たんってば萌えキャラに!

で、なぜ創貴たんが突如萌えキャラに変身したのか考えていたのですが、それは彼自身の変化ではなく状況の変化が原因で、もっと言えばある人物の登場が原因でした。りすかの従兄である水倉破記です。彼は初めてこの作品に登場した「大人」だったのです。いや、それまでにも「大人」も存在はしていたのですがあくまで「敵」としてのみで、りすか・創貴陣営の大人は名前だけしか出てこない二人の父親と干渉してこないチェンバリンだけで、存在しないも同然だったのです。

私がなぜ賢い少年が好きなのかというと、それは「こども」であるが故の理不尽さのためです。たとえば50の能力を持つ「大人」と100の能力を持つ「こども」がいたとします。能力のみで比較すると圧倒的に「こども」が勝っているにも関わらず、「こども」というだけで「大人」に勝てないことがこの世にはたくさん存在します。例えば体力や体格、酒や煙草、もっと単純なことを言えば「年齢」だけは絶対に勝てません。はっきりいって取るに足りない下らないことばかりで、「年齢」の問題に関して言えば時が経てば「若さ」という利点にすらなるのですが、現在「こども」であるというだけでそんな下らないことで劣ってしまうのです。どんなに優秀だろうと時間だけは自分の思うままにすることができないのです。

知識で武装をしつつ、その理不尽さに必死で立ち向かっている少年の姿に私は「きゅん」としてしまうのです。理不尽なもの、抗えないもの、運命、宿命。そういうものに立ち向かっている人に私はどうしようもなく萌えてしまうのです。ロシア文学の好ましさもアイドルへの思い入れもすべてはこの感情が根源にあるのですが、これについては長くなるので割愛。

とにかく水倉破記という「大人」、しかも圧倒的な能力を持つ「大人」の登場により、初めて創貴の「こども」故の(そして普通の人間であるが故の)理不尽さや不自由さが発動し、私はもえもえしてしまったのです。しかも相手は「運命」を操る男だからね。まさに「運命」に立ち向かっていると言える。でも「こども」ってだけで勝てないことはたくさんあるけど、かといって絶対勝てないわけじゃないのです。そこがまた乙ですね。ふふふ。

結局創貴の「目的」がいまいち判然としないし、やっぱり第二話の展開には全くもって納得できないのですが(常識のない人間は我慢できるけど倫理観のない人間は我慢ならん)、第三話の完成度がとても高かったので続きも読もうかな。それと、りすかは強調構文めいた不思議な口調で話すんだけど、こういう不思議ちゃんな話し方が萌えなのかな?私、不思議ちゃんは苦手なのでよく分かりません。そういえば美少女系眼鏡っ娘も苦手。そもそも男の萌えってよく分かんないや。