愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

まるで魔法にかかったような

時間が止まっていく

「大阪ロマネスク」の中でいちばん好きな一節。初めてこの曲を松竹座で聴いた時、時間だけではなく人も空気も何もかも止まっているような感覚に陥った。すべてが止まった空間の中ではどのファンも均一化される。そうしてエイトはあの空間を一つのかたまりに変えた。いや、あの柔らかな空間に「かたまり」という言葉は不適切かもしれない。「うねり」とでも言えばいいのか。まるで羊水にたゆたっているような不思議な陶酔感。均一化されたファンは何も考えず、赤子のようにただうっとりとその幸福をむさぼれば良かった。
「大阪ロマネスク」だけではない。
たとえば「EDEN」
たとえば「Heavenly Psycho」
これらの曲が流れると、時は止まり、すべてのファンは通じ合い、松竹座は小さな宇宙になった。客席にいるファンが見つめているのは違う人間だったかもしれない。けれども違う人間を通して、みな同じ場所を見つめていた。エイトメンもきっと、ファンを通じて同じ場所を見ていた。そんな魔法のような空間を作りだせる曲がかつてのエイトにはあった。

この夏、松竹座で「大阪ロマネスク」を聞いて、消費されているなと思った。FTONコンの「EDEN」にも同じことを思った。曲そのものが、ではない。曲に込められていた物語が消費されているのである。

かつてエイトについて、こんなことを書いたことがある。

ヒエラルキーの一番上が三馬鹿、一番下に山田。山田と同じ位置で虎視眈々としている大倉、あえて自ら三馬鹿の一歩下に控えるにっきどさん、「ヒエラルキーって何?それおいしいの?」というノリで色々な階層をフラフラとして皆を繋ぐピロキ。これが私の中のエイトの形です。だから今の状況は糸の切れた数珠のような感じ。

もともと仲の良かったエイトメンだが、7人で活動するようになってからそのアピールが過剰になった気がする。思えばエイトからヒエラルキーを感じられなくなったのも同じ頃だ。それぞれの階層を繋ぐ子がいなくなって、彼らはヒエラルキーを保てなくなったのかもしれない。だから彼らは横並びになった。8人で紡いできた物語を守るために、彼らは8人で築いてきた形を壊すことを選んだのだ。

あれから1年経つ。1年は長い。8人の物語を7人で守ることは難しくて、そうして引っ張り出されてきたのが「EDEN」だったのではないだろうか。FTONコンで「EDEN」を歌っていると聞いた時は耳を疑った。私はこの曲は8人が再び揃うまで封印しているものだと勝手に思い込んでいたのである。それだけこの曲に込められている物語は濃密なもので、安っぽいアレンジで仰々しく歌われる「EDEN」を聴いて、私は妙に白けた気分になると同時に悲しくなった。彼らは過去の物語をなぞらなくてはならないところにまで来てしまったのかもしれない。松竹座で消費される「大阪ロマネスク」を見て、ますますその思いは強くなった。物語は作るものではなく、自然に作られるものであるというのに。

念のため言っておくが、この夏の松竹座は楽しかった。ひたすら楽しかった。けれどもそこに魔法はなかった。きっと8人でなければ魔法はかけられないんだと思う。私はそれで良いと思う。

「Heavenly Psycho」は最後の砦だ。ソロコンでにっきどさんが歌ったのは良かった。でも7人で歌ったらいけない。1人欠けて歌うには、あの曲の歌詞は暗示的過ぎる。あの子がいないまま回されてしまう「Heavenly Psycho」なんてくそくらえだ。

もうすぐツアーが始まる。あの子がいてもいなくても、私は納得するだろうし、複雑な気持ちになるだろう。それだけのことをあの子はした。だから色々な推測はするけれど、願望は抱かないでいようと思う。ただ一つだけ望むなら、もし8人揃ったなら「Heavenly Psycho」を歌って欲しい。そして揃わないなら歌わないで欲しい。希望の歌は希望を求めて歌うのではなく、希望の中で歌うべきだ。様々な苦難を乗り越えてやっと辿りついた希望の薄明かりの中で歌っていたからこそ、あの曲は素晴らしかったのだ。