デミアン
高橋健二の訳はどこか間が抜けているというかピントが外れているような気がしてならないので、岩波版も読んでみたいところ。新潮文庫のヘッセ作品はカバーの色が綺麗だからどうせならこっちで揃えたいんだけど、訳は全部高橋健二。岩波だと実吉捷郎かぁ。高橋健二と実吉捷郎なら実吉捷郎だなぁ。
ところでね、その蛾にしても、雌が雄と同じようにひんぱんにいたら、鋭敏な鼻を持ちはしないだろう。そういう鼻を持っているのは訓練したからにほかならないんだ。
例えば、この「訓練」って言葉がどうもピントがずれているように思えるのです。訳者じゃなくて、ヘッセのピントがずれているのかしら。文学の登場人物に始終ハァハァしている私が、この作品にあまりときめかないのは高橋さんのせいかヘッセたんのせいか。うーーんヘッセたんのせいかも。このお方の作品は「自分=世界」なんだよ。トーマス・マンは「世界=自分」だと思う。ドストエフスキーなんて超「世界=自分」だね。
ただ続く言葉には同意しつつ耳が痛い。
動物、あるいは人間も、彼の全注意と全意志をある一定の事物に向けるとすると同じようになれるんだ。それだけのことだ。(中略)ある人を十分精確に注視してみたまえ。そうすると、きみにはその人のことがその人以上に分かるんだ。
「全注意」だけではなく「全意志」を向けるというのは確かに正しい。実際に分かっているのかどうかはともかく、確かに注視することによって分かったような気にはなっている。「見る」という行為は、相手に何も気付かせず相手のすべてを奪うことができる行為だ。アイドルヲタは罪深い。
- 作者: ヘッセ,高橋健二
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1951/12/04
- メディア: 文庫
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