愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

死霊

死霊(1) (講談社文芸文庫)

死霊(1) (講談社文芸文庫)

ようやく1巻読了。ドストエフスキーを読んでいる時にたまに感じる疎外感がない。埴谷雄高が日本人でよかった。言語と文化を共有している人間にしか分からないことがある。素晴らしい作品を直の言葉で読めることがこんなに幸福だなんて知らなかった。
黒川健吉=キリーロフ、首猛夫=ピョートルという印象。そういえば三輪与志は二人兄弟なのに、あらすじに「三輪家四兄弟」とあるのがひっかかる。首猛夫にはスメルジャコフ的なにおいもするので、三輪家の腹違いの兄弟だったりするのかもしれない。あと一人は誰だろう……?四人兄弟となるとカラマーゾフっぽくてゾクゾクするけれど、今のところ三輪与志はカラマーゾフというよりラスコーリニコフ時々キリーロフという感じ。となると、矢場はラズミーヒン?うーーん、矢場こそカラマーゾフ的な気もする。ああドストエフスキーと照らし合わせる作業が楽しすぎる。五関さんのソロ曲妄想をしているときと同じくらい楽しい。

もし人間をその内部に含んでいた存在が、或るとき、或る窮極の、時間の涯のような瞬間、怖ろしい自己反省をして、そこに嘗て見慣れた存在以外のものを認めたとしたら、永遠に理解しがたいようなものがそこに残っていたとしたら、ばっくりと口をあけ虚空の空気が通うほど巨大な傷がそこに開いているとしたら、そのものは人間からつけ加えられたものだ。それは時期知れぬ、何時の間にかつけ加えられた。それは、それまで見たことも予想したこともなかった。まるで奇妙な、存在が不動の存在である限り決して理解しがたいものの筈です。おお、それこそ……その名状しがたいものこそ、 虚体です!