愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

待たないと待てない

更新が一日抜けていたので穴埋めします。とにかく一ヶ月で30個エントリが書ければいいだろう、という気持ちでやっていきたいです。


人は何かをしたいと思うことがなくなったらもう生きていると言えないんじゃないかとよく思うんですが、この一年間したいことの8割くらいが「KCラジオが聴きたい」だったので、もう2割くらいしか生きていると言えないような気がする今日この頃です。でも人間、2割もあればなんとか生きていけるみたいです。

私は小さい子がサンタクロースを待つみたいに次のKCラジオをものすごく楽しみにしていました。もう、そんな風に待つことができないことが寂しくて悲しくてたまらないです。心からサンタクロースを信じている子に、誰かが「サンタなんて本当はいないんだよ」と言っているのを聞いたらひどいと思いませんか。いずれ知るようになることをわざわざ言って、わくわくしている気持ちを取り上げなくても良いと思いませんか。別にKCラジオは取り上げられたわけではないし、私が勝手に待っていただけなんですけど。


何かを待ち遠しく思う感情って素敵ですよね。この歳になって、こんなに純粋に何かを待つことができるなんて思ってもみませんでした。三週ごとに夜中の1時が近づくにつれてドキドキして、そのドキドキはほぼ落胆で終わっていたんですけど、その待っている時間も含めてKCラジオが好きでした。もはや吊り橋効果に近い感情だったような気すらします。大人になってからのおたふく風邪がなかなか治らないみたいに、その時の気持ちから抜け出すことができません。


「しない」ことと「できない」ことの違いを考える時、いつもある小説の一節が思い浮かびます。

“無”と書いた軸を掛けても、何もなくなりません。“死”と書いた軸の場合は、何もかもなくなる。“無”ではなくならん。“死”ではなくなる!


井上靖『本覚坊遺文』)


「しない」と「できない」は「無」と「死」の違いに似ている気がします。もう待つことができないという事実は、私の中の何かをすっかり奪い去っていってしまって、もはや単なる反射だけで生きているような気がします。


私は知念様を単体で見るのももちろん好きで、知念様の孤高のかっこよさにいつだって震えていたんですが、知念様の他者との関わり方から透けて見える繊細さにいつしか惹かれるようになって、その細い細いレース糸でいくつも同じように見えるけど少しずつ形の違うモチーフを編みあげては繋ぎ合せて、そうやって私の中の知念様を作り上げていたような気がします。だけど、突然その糸が生産中止になってしまって途方にくれています。私はレース編みはその糸でないとできないんです。

綿の糸や毛糸で編むのも好きです。レース糸がなくなったら、私は他の糸で編むだけです。だけど、作りかけのレースのモチーフを見るたびに悲しくなります。せめてあともう一玉あれば、もう少し綺麗な形で終われたのにと思います。今まで編んだものをほどいて編み直すことはできます。でも、私がずっと編みたかったものはもう二度と完成しないのかと思うと、やっぱり寂しくて悲しいです。