愚民159

人はただ十二三より十五六さかり過ぐれば花に山風

家族ごっこ

日記を書きたいなぁと毎日思っているのに、時間がまったくとれなくて、気付けば7月は何も更新できませんでした。前々から、私はおたくをやめるとしたら夜空に花火がはじけ飛ぶように派手に終わるんじゃなくて、線香花火の火の玉が落ちるようにひっそりと終わるんじゃないかと思っていたんですが、そろそろその時が近付きつつあるような気がしてさみしい今日この頃です。
といっても、別にやめるつもりは全然なくて、知念様のことは相変わらず大好きなんですが、結局行こうと思えば行けたのに広島も長野も行かなくて、私は行かなかったコンサートは友人知人のレポをざっと読むだけでわざわざ何が起こったのか探しもしないので、勝手に近しく感じていた知念様という存在が厚くて高い壁の向こう側の更に遠くにいるお方のように思えてきました。といっても、その壁は元からあったもので、私はそれを透かして見ることに異常な情熱を注いでいたので、その存在を忘れていただけなんですが。

こんなに更新していないのに、拍手をぽつぽついただけたり、メッセージなんかもいただけたりして、ありがたさと申し訳なさの混じった気持ちになります。

拍手といえばずいぶん前に、父親の話をしない知念様と母親のいない圭人の関係性についてどう思うかという質問をいただいたんですが、私は前々からずっと圭人と知念様はどちらがどちらの庇護の対象なのかということが気になっていて、実はお互いがお互いのことを庇護の対象として見合っていたんじゃないかとぼんやり思っていたんですが、ふと先述の拍手の質問を思い出して、この二人が幼いころにしていたことはつまるところ家族ごっこだったのかもしれないなぁと思ったりしました。だから、誕生日もクリスマスも一緒に過ごしていたのかもしれない。私は圭人に対してお兄ちゃんみたいに振る舞う幼い頃の知念様がかわいくて大好きなんですけど、幼い二人がお互いの理想の家族を演じて小さな世界にこもって喜んでいたのかと思うと、すごく切なくなります。

と、勝手な妄想でまだ切なくなったりできるので、もう少し知念様の愚民としてがんばっていきたいです。